て育った生活がないというところからくるギゴチなさである。つまり頭は進んでいても眼高手低をまぬがれない。これを子供の時からその世界で叩きあげている「歌舞伎」にくらべると、新劇の眼高手低の甚しさがハッキリする。
 そのような意味でも、戦後、庶民生活に、特にその子供たちの生活の中に、芸術が生活の一部に、又はそれに近い親しいものになりつつあるということは、慶賀すべきことだ。それは芸術界のためにのみ慶賀すべきことではなくて、日本の永遠の平和な生活のためにも。
 だいたい日本人はいろいろの人種の中で最も温和を好む人種の一ツではないかと私は思う。現在、切符売場の行列、乗降の混乱など団体生活の秩序が乱れているのは、負けた兵隊や難民のドサクサまぎれの根性が露骨に現れているだけのことで、この焼野原の雑居生活でこうなるのは仕方がない。もとはといえば、なりたくもない兵隊にさせられ、あげくに戦争して負けたせいで、本来、大多数の日本人というものは、むしろ困ったことであるほど事なかれ主義で、進歩的なもの、改善をすら好まないほど大保守家なのである。こういう保守的な国民に必要なのは、芸術を生活の友とすることである。しかし、古来の伝統の芸術は、いずれもその国民性によって、型となり、奥義となり、神秘化され、常に現実から離脱して古典化を急ぎたがる傾向であったのである。
 我々の生活の中に西洋の音楽や踊りや劇や映画がはいってきたことは、我々の保守すぎる傾斜を正して、世界の一様の水準においてくれるものでもあり、すくなくとも芸術生活において、国民性として古典化や型化を急ぎ、神秘主義者になりたがることが、防がれることにもなるのだ。我々の生活は、世界の芸術を友とすることによって、自然にその進歩にもついて行き、コチコチの島国根性にいつも一つの通風孔をあけていることにもなるであろう。さすれば神がかりになる率もよほど少くなるだろう。
 日本共産党は、殆ど理知が基盤となっていないのだ。そして、スパイ的、陰謀的、好戦的である。しかしその根本にあるものは、正義感でもなければ人間愛でもない。神がかりなのだ。そして、通風孔がないのである。
 漁師や魚屋の娘がピアノやバレーを習いだしたように、共産党のテキハツ隊やヤミ屋諸氏も、娘にピアノやバレーを習わせたまえ。



底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第三号」
   1951(昭和26)年2月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第三号」
   1951(昭和26)年2月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月17日作成
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