たかと思ふと、家中の戸をひとわたり(勿論私の戸も――)蹴倒してしまひ、「ああ、不潔だ、ああ不潔だ、この濁つた空気は堪え難い、めまひ[#「めまひ」に傍点]がする、窒息しさうだ、w―w―w―w―w…………苛々する、ああ、苛々する、wachchchchch……」――坂道の一角を指して(其処には広い睡むたいやうな静かな緑が展けてゐるが――)走り去つてしまふのである。又例へば、真夏の宵の、厚みの深い薄明がジットリと流れかかる時分に、殆んど言ふべくもない静寂に同化し乍ら、私が、夕食の膳に向つてゐると、突然この不愉快な金属は、決して私を問題にしない無関心な顔付をして私の部屋へ這入つて来たかと思ふうちに、不意に食膳の上へ屈み、焼魚の尾鰭を二本指先で撮《つま》みあげて、汚ならしさうに窓の外へ投げ出してしまひ、「ああ、この悪臭には実に悩まされた――」と呟き乍ら清々して立ち去らうとするのである。事実といふものを決して即座には呑み込むことの出来ない私は、彼が已に後姿になつてのち初めて劇しい憎悪に襲はれるのであつたが、すると彼は、(内心私の激昂を決して無視してはゐなかつたので)、忽ち後姿にも生真面目な恐怖を表はして、しかも尚無関心を装ほひ乍ら、面白さうな足どりで階段を降るのであつた。私は覚えず逆上して――その時已に彼の閉ぢ籠つた階下の一室を荒々しく開け放ち、
「ああ、騒がしい奴だ。貴様は実に、鼻持のならない奴だ、ああ、貴様は……」
「ア、ア、ア、不潔だ、不潔だ――」
 彼は怯えて――狼狽と反抗とで蒼白な頬に痙攣を起し乍ら、熱狂して、見えない敵と闘ふやうに打ち騒ぎはじめるのであつた。
「出て行け! お前は出て行つてくれ! お前を見ると胸がむかむかしてしまふ。苛々する。ア、ア、お前は俺を殺すのか――」
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしい……」
「ア、ア、俺は自殺する。俺は自殺してしまふ……」
「うるさい、ああ、うるさい。実に、騒がしい奴だ、ああ、俺は間もなく死んで行く人間なんだぞ――ああ、俺は……」
「ああ、堪えられない。実に不愉快だ。俺は生きてゐられない。アア、全く暗闇だ……」
 彼はやにわ[#「やにわ」に傍点]に座布団を取り、劇しく私に叩きつけると、その隙にいち早く私の横を擦り抜けて、wachchchchch――坂道の一方へまつしぐらに走り去つてしまふのである。
 第三の騒音――
 扨《さ》て、私は曩《さき》に、恰も私は、終日終夜堅く外出もしないやうに述べたのであるが、然し私は、一定の時間には必ず一度、外出しなければならなかつた。勿論それは、気分の上に於て、いはば全く区劃の不鮮明な茫漠さを、内より外へ運び出すに過ぎぬのであるが――一日のうちに一度づつ、その事があつたのである。
 そこで、私は、最も簡単に言ふのであるが、私はもはや死ぬのであつた。私はもはや、長くないのである。――私は、朝の洗面に、血痰に悩まされるのであつた。そして私は、私の吐き出した物に対して、その幾分か不気味な、丁度栓を抜くやうに空虚な喉ざわりのほかには、決して特別の愛情も、扨て又特別の美意識も懐くわけではなかつたが、私は、一応洗面器を持ち上げて、吐き出した赤いチラチラするものを、流しの上に探し出さねばならなかつた。そして又、私は、狼狽を隠すためではあるまいけれど、様々な別なことを考へやうとして、結局何事も思ひつかずに、ボンヤリと赤いものに眺め入つてゐるのであつた。
 私は毎日、病院へ通ふのである。灰色な、あの厳《いか》つい石門を潜つて、大きな建築の中に生命の見窄らしさを威嚇されたくない私は、そして、白い着物を着た、決して親愛を顔に出さうとしない人々から、邪魔者の(殆んど世の中にさへ――)のやうに眺められたくない私は、そして又、何物かの追求のために全く目まぐるしい活気に満ちた廊下を、あのベタベタと鳴るスリッパの世界を、脇見をしない白い人々の往来を、眺めたくない私は、(私はそれをそんなに強く怖れたわけではないだらう。然し私は些少の嫌悪にも堪え難いから――)、斯うして私は、腕の確かな、しかし非常に平凡な、そして相当に貧乏な、(決して石の家には住まつてゐないところの――)、更に又、時々私がわけの分らぬ独語《ひとりごと》を思ひ余つて呟く時にも、きつと其の人はビックリして私の顔を凝視めながら、ぼやけた声で「何ですか――」と訊いてみて、自分の方で赤面してしまふやうな――私は、斯様に好人物なドクトルを、探し出すことが出来たのであつた。
 その人は私の症状に就て、全く漠然としか語ることを好まなかつた。そして、白い漆喰の方を向いて手を洗ふ時にのみ極つて、もう殆んど全快に近いこと、本来非常に軽微な症状でしかなかつたことを、その時だけは語気を強めて、然し次第に語勢の落ちた小さな呟きのやうにして、遂には結局手垢と手と共に洗ひ流してしまふやうに、呟き終はるのであつた。そして今度は私の方を振り向いて、もし私の気さへ進むなら、転地してみるのも悪い試みではないことを、早口に、ごく簡単に述べるのであつた。しかし、私は、殆んど旅の経験を持たない人間であつたので、汽車に乗ること、見知らない土地へ向つて一人走り去ることの心細さや、旅先での様々な煩瑣な心遣ひのことなぞが、私を重たくして、私はそれを考へることも寧ろ好まないやうであつた。
 そして私は、この単純な白漆喰に取り囲まれて、簡潔な、直線的《リネエル》な医療機械に護られてゐると、凡有《あらゆ》る蟠《わだか》まりを発散して、白痴のやうにだらし[#「だらし」に傍点]なく安心したい気持になつた。時々、私の顔はだらし[#「だらし」に傍点]なく夏のさ中へ溶け込もうとし、私は、睡むたげな空気となつて、蝉のやうなヂンヂンを唸り出したい幻覚に襲はれるのであつた。何故ならば、この真白な診察室にも矢張り、夏は訪れてゐて、細長い南の窓から、翳りの深い、脂ぎつた夏の樹と、泌みつくやうな濃厚な空が、その葉を越えて展らけてゐた。不図した些細なハヅミに由つて、私の凭れる廻転椅子は、睡りのやうにユラユラと滑り出しさうになり、そして、白い空虚な部屋の中には、此処にも矢張りもんもんと滾《たぎ》る蝉の音《ね》が木魂してゐた。
 扨て、一定の時間が来て、(朝の十時がその時である――)、愈々私は出発しなければならない時がくると、私は、出掛けるにはまだ少し早すぎる時間であると考へてみたり、何かしら満ち足りない気持がして、又暫くは窓に凭つて外の風景を眺めたり、懐を探つてみたり、そして静かに倒れ伏したりするのであつた。すると、さういふ何かしら物騒がしい気配に由つて私の出発を感知した隣室では――
(其処には田代君夫婦が間借をしてゐたが、朝早く、已に夫君を会社へ送りだした其の夫人は――)
 その妻君は、私の気配を知つて、矢張り外出の仕度をしはじめたのであつた。ある理由によつて、私が不在にするときには、必ずこの人もその部屋を立ち出でる必要に迫られてゐるからであつた。
 長い惨めな生活に踏みしだかれ、痛められ通してきた此の婦人は、そして又、深い教養を持つ此の婦人は、憖《なまじ》ひに教養のあればあるだけ、自らを省みて臆病にしか振舞ふことが出来なかつたので、私に救ひを求めるやうな――それでゐて、決して然し自分の要求を露骨には表はすことが出来ずに、寧ろ自らを嘆くやうな、自らを卑しむやうな、遣り切れない心細さを漂はして、私の後を歩いてくるのであつた。しかし私は、全く反省もなく唯軽率に、人のうるささのみを専《ひた》すらに忌み嫌ふ私は、露骨に苦りきつた嫌悪の表情を表はして、寧ろ軽蔑を、――或ひは、「私は貴女と一緒には一秒といへども歩きたくない」といふ意地わるな示威を、忌々しげに表現してみせるのであつた。すると此の婦人は、更に一層の自卑を感じて――しかしその強い怒りを隠しきれずに、弱々しい反抗を、無言のうちに反撥しやうとするのであつた。
 そして私は――ひたすらに人のうるささを忌み嫌ふ私は、まして、私にまつわりかかる人の感情のうるささに対しては怒りの絶叫さへ張りあげたい私は、私に加へられた此の婦人の反抗を、更らに激しい立腹をもつて叩き返さずにはゐられなかつた。私の性質として、決してまとも[#「まとも」に傍点]に整然たる理論を扱ひ得ない私は、たち[#「たち」に傍点]の良くない皮肉によつて、それは寧ろ殆んど一種の致命的な侮辱でさへあるところの悪意を籠めて、例へば、「私は貴女の夫ではありませんからネ」とか、「貴女を護衛するナイトはもう一人ある筈だから――」なぞ言ふのであつた。すると彼女は、どんなにも努力を費して、しかし余りに激しすぎた憎悪のために、結局遂に何も言ふことが出来なかつたり、或ひは又、辛うじて、「無意味なことを仰有《おっしゃ》いますな」と呟くのであつた、其の言葉に胸を突かれる私は、突嗟に激しい自卑を覚え――しかし自卑を、自卑として感じる前に忽ち其れを怒りに変へて、わけもなく逆上してしまひ、全く混乱して、
「私はもう直き死ぬのだ……」
「来年の此の季節は、もう決して二度と見られない私なのだ……」
「死んで行く人間の気持が、貴女なぞに分つて堪るものでない……」
 そして私は――
 斯様な言葉を殆んど噴出する火かのやうに吐き出す時に、怒りと嘆きと――それは全く際涯もない永遠のものを対象にして、私は、もし涙が迸しらなければ、この細長い身体自身を迸しるやうに、まつしぐらに駈け出させたい激情に襲はれずにはゐられなかつた。
 私の逆上した混乱に、当然同化し得べくもない此の婦人は、白けた気持に押し流されて、結局私を医院の門前へまで送るやうなことになつた。そして彼女は、茫然として門の内へ這入らうとする私へ、慎しみ深い会釈を与へて、
「さようなら。では御大事に、ね。近いうちに、きつと全快なさいますわ」
「あ、あなたも、あなたも――」
 私は全く狼狽して、
「あなたも、幸福になります――」
「ええ、ありがとう……」――
 空の模様といふものを、街の色彩といふものを、私は斯様なハヅミによつて、漸く意識に入れがちである。
 扨て、私は、この不思議な道連れに就て、その理由を語る前に、更に第四の騒音として、暫く田代君夫妻のことを述べなければならない。
 田代笛六、――この勤勉な会社員は、矢張り私を甚しく悩ますところの、一個の算盤であつた。夢にさへ――私は時々、不思議な夢を見るのであるが、例へば――尨大な一個のピラミッドが、しつきりなしに微細な多くの三角形に分解しながら、どうしても其の原型を失はない焦燥に満ちた夢なぞと一緒に、疑ひもなく私は、田代笛六の平凡な顔を、焦燥をもつて夢の中に仰ぐのである。その顔は、私が切に消え去ることを祈るにも拘らず、頑固に消え去らうとはしないのであつた。そしてそれは、平凡な、且《かつ》勤勉な彼自身に何の咎があるわけでなく、それの存在それ自身が甚だうるさい点に於て、全く現実に酷似してゐた。何故ならば、私は、田代笛六の訪問によつて、毎夜の静かさを掻き乱されるからであつた。
 田代笛六の生活――
 四十五円の収入から、先づ支出として七円の間代を支払ひ、充分に享楽して(彼の言葉によれば――)、扨て、尚かつ月々拾円の貯金を残すところの彼は、稀に見る勤倹精神の持主であつた。何事にも細かな計算を忘れない彼は、例へば喜怒哀楽にも、歩きぶりにも、さては又、顔にも指にも、その計算を滲ませてゐた。彼は夜毎に一日の支出を計算して、それに就ての精密な応答を取り換はすことを忘れなかつた。その時彼は、その妻君の返答の一寸した渋滞にも、そして又、その返答の活気の無さに対しても忽ちに癇癪を起さうとし、貴重な問題を取扱ふことの真摯さを、決して忘れまいとするやうであつた。そして此の種の応答に由つて多分に激情を刺激された彼は、(そのために、往々、激しい喧嘩なぞも起りがちであつたが――)、一つの敷居を跨ぐことによつて突然その気分を好転せしめるために、ツと立つて私の部屋を訪れるのであつた。廊下を歩く数秒の道程に由つて、已に完全な、社交家としての笑顔に移り得る彼は、しか
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