しい人だ。僕を静かにしておいて呉れといふのに――」
「貴方こそ、貴方の部屋へ――」女は、掠れ去らうとする声を熱心に集めて、
「貴方こそ、お戻りなさるといい。貴方のお部屋へ――」
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしいぞ。ああ、ああ、君なぞに、死んで行く人間の気持が分つて堪まるものでない。ああ、俺は、もう長く生きてゐない人間だから……」
 私の腕は、激怒のために大きな震幅に顫えはぢめて――若しこのまま、女の顔を劇しく打ちのめすことでもしなかつたなら、私の身体は一瞬にして千切れ去つてしまふやうな身悶えを覚え乍ら、其の場へ全く立ち竦んで、虫のやうにビクビクとする全身の顫えを、どうするわけにも行かなかつた。

 まだ夏の盛りに、この女は、坂下の家を逃げてしまつた。その昼間、私と、病院の門前で立ち別れた女は、夜になつても帰つては来なかつた。私はその事を、女は已に逃げ去つたのだとは思ひ込むことが出来ずに――隣室に物音のない不思議な一夜を明してのち、翌る朝になつて、苦り切つた笛六が、ややともすれば表情の失せた、白々しい苦笑に落ち込みがちな顔付をして、、何も言はずに出勤してしまつてから、その事を思ひ知ること
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