けて来て、彼女はツと階下の気配へ耳を欹《そばだ》てたかと思ふと――決して挨拶の言葉すら返すまいとするかのやうな苦りきつた私に向つて、彼女も亦決して聞き取れる言葉では別れの挨拶を述べやうとせずに、再びあの、立ち現れた時の、朦朧として夢のやうな顔、形をして、戸口の向ふへ消えて行つてしまふのである。すると忽ち階下から、お嬢さん、大変姿勢が悪うござんすよ、もつとお嬢さんらしく、グッと斯う気取つて……と、まるで違つた音声で言つてゐるのが聴えてゐる。
 そこで私は、そのとき何物かの気配に由つて已に全く孤独であることを納得せしめられて、――然し、もはや、その静穏な孤独も悦ぶ気力のない私は、やがて甚だ沈鬱な動作と共に、ガッカリとただ寝倒れてしまふのである。するとそれらの一点に於て、殆んど信じ難い唐突な一瞬間に、盛夏の鮮やかな風物が、耀やく屋根が、懶うい径が、鳴きしぐれる蝉の音が、頭上に近くさやさやと鳴る微かな風が――忽ち展かれた窓のやうに、そして忽ち閉ぢられて行く窓のやうに、爽やかに滲み溢れて――そして又、闇のさ中へ還へるのである。
 騒音の第二――私は、(当然私と呼ばるべき断乎たる一聯の感情は)、断乎として――私は、ここの倅を好まないのだ。私は、(私は、私は――)、金属性の物音が嫌ひである、私は、(私は私は――)全て金属的な存在が、金属的な神経が、嫌ひである。ところで、ここ[#「ここ」に傍点]の倅は、真鍮喇叭《しんちゅうらっぱ》であつた。
 この不愉快な金属は、最近まで経済科の大学生であつたが、今は止して、専ら何事もしてゐなかつた。何事もすることがないので、気違ひの真似や、自殺の真似をするのであつた。決して人の神経を顧慮することのない、野性的な、ベルトのやうな神経をもつて、十|瓦《グラム》ほどのカルモチン錠剤を嚥み下してみたり、遺書を残して行方を晦ましたり、常に何事かの騒音を惹起することに由つて、其の存在を認識せしめやうと企むかに見えた。
 麗かな朝、陰鬱な朝、――朝は概ねヒッソリとして階下の一室に閉ぢ籠つてゐる男は、午過ぎ頃になると突然 wachchchchch と張り裂けるやうな悲鳴をあげて、「|俺はつらい、拙者は悲惨だ!《ジュ・シュイ・トリスト オー・ミゼラブル!》」と嘆き乍ら手足をバタバタ力一杯に畳や壁へ打付けてゐるが、軈てやにわ[#「やにわ」に傍点]に自分の部屋を飛び出
前へ 次へ
全16ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング