と手と共に洗ひ流してしまふやうに、呟き終はるのであつた。そして今度は私の方を振り向いて、もし私の気さへ進むなら、転地してみるのも悪い試みではないことを、早口に、ごく簡単に述べるのであつた。しかし、私は、殆んど旅の経験を持たない人間であつたので、汽車に乗ること、見知らない土地へ向つて一人走り去ることの心細さや、旅先での様々な煩瑣な心遣ひのことなぞが、私を重たくして、私はそれを考へることも寧ろ好まないやうであつた。
そして私は、この単純な白漆喰に取り囲まれて、簡潔な、直線的《リネエル》な医療機械に護られてゐると、凡有《あらゆ》る蟠《わだか》まりを発散して、白痴のやうにだらし[#「だらし」に傍点]なく安心したい気持になつた。時々、私の顔はだらし[#「だらし」に傍点]なく夏のさ中へ溶け込もうとし、私は、睡むたげな空気となつて、蝉のやうなヂンヂンを唸り出したい幻覚に襲はれるのであつた。何故ならば、この真白な診察室にも矢張り、夏は訪れてゐて、細長い南の窓から、翳りの深い、脂ぎつた夏の樹と、泌みつくやうな濃厚な空が、その葉を越えて展らけてゐた。不図した些細なハヅミに由つて、私の凭れる廻転椅子は、睡りのやうにユラユラと滑り出しさうになり、そして、白い空虚な部屋の中には、此処にも矢張りもんもんと滾《たぎ》る蝉の音《ね》が木魂してゐた。
扨て、一定の時間が来て、(朝の十時がその時である――)、愈々私は出発しなければならない時がくると、私は、出掛けるにはまだ少し早すぎる時間であると考へてみたり、何かしら満ち足りない気持がして、又暫くは窓に凭つて外の風景を眺めたり、懐を探つてみたり、そして静かに倒れ伏したりするのであつた。すると、さういふ何かしら物騒がしい気配に由つて私の出発を感知した隣室では――
(其処には田代君夫婦が間借をしてゐたが、朝早く、已に夫君を会社へ送りだした其の夫人は――)
その妻君は、私の気配を知つて、矢張り外出の仕度をしはじめたのであつた。ある理由によつて、私が不在にするときには、必ずこの人もその部屋を立ち出でる必要に迫られてゐるからであつた。
長い惨めな生活に踏みしだかれ、痛められ通してきた此の婦人は、そして又、深い教養を持つ此の婦人は、憖《なまじ》ひに教養のあればあるだけ、自らを省みて臆病にしか振舞ふことが出来なかつたので、私に救ひを求めるやうな――それでゐて
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