十五の私も、四十の私も変りはないのだ。
 尤も私は六ツの年にもう幼稚園をサボつて遊んでゐて道が分らなくなり道を当てどなくさまよつてゐたことがあつた。六ツの年の悲しみも矢張り同じであつたと思ふ。かういふ悲しみや切なさは生れた時から死ぬ時まで発育することのない不変のもので、私のやうなヒネクレ者は、この素朴な切なさを一生の心棒にして生を終るのであらうと思つてゐる。だから私は今でも子供にはすぐ好かれるのはこの切なさで子供とすぐ結びついてしまふからで、これは愚かなことであり、凡そ大人げない阿呆なことに相違ないが、悔いるわけにも行かないのである。
 私の父には、すくなくとも、この悲しみはなかつた。然し、この悲しみの有無は生れつきの気質ではなく、人は本来この悲しみが有るものなので、この悲しみは素朴であり、父はそれを抑へるか、抑へることによつて失ふか、後天的に処理したもので、さういふ風に処理し得たことには性格的なものがあつたかも知れない。
 私はだから子供の頃は、大人といふものは子供の悲しさを知らないものだときめこんでゐた。私は然し後年市島春城翁と知つたとき、翁はこの悲しみの別して深い人であり、又、会津八一先生なども父の知人であるが、この悲しみは老後もつきまとうて離れぬ人のやうである。だから父も今の私が見ればこの悲しみを見出すことが出来るかも知れないとも思ふのだが、然し、さうではない、と私は思ふ。なぜなら、私の長兄は父に最も接触してゐた子供であり、この長兄にはこの悲しみが微塵もないからである。この悲しみは血液的な遺伝ではなくて、接触することによつて外形的に感化され同化される性質の処世的なものであるから、長兄の今日の性格から判断しても、父にはたしかにこの悲しさがなかつたんだと思はれるのである。
 私は父に対して今もつて他人を感じてをり、したがつて敵意や反撥はもつてゐない。そして、敵意とは別の意味で、私は子供のときから、父が嫌ひであつた如く、父のこの悲しみに因縁のない事務的な大人らしさが嫌ひであり、なべてかゝる大人らしさが根柢的に嫌ひであつた。
 私が今日人を一目で判断して好悪を決し、信用不信用を決するには、たゞこの悲しみの所在によつて行ふので、これは甚だ危険千万な方法で、そのために人を見間違ふことは多々あるのだが、どうせ一長一短は人の習ひで、完全といふものはないのだから、標準などはどこへ置いてもどうせたかゞ標準にすぎないではないか。私はたゞ、私のこの標準が父の姿から今日に伝流してゐる反感の一つであることを思ひ知つて、人間の生きてゐる周囲の狭さに就て考へ、そして、人間は、生れてから今日までの小さな周囲を精密に思ひだして考へ直すことが必要だと痛感する。私は今日、政治家、事業家タイプの人、人の子の悲しみの翳《かげ》をもたない人に対しては本能的な反撥を感じ一歩も譲らぬ気持になるが、悲しみの翳に憑かれた人の子に対しては全然不用心に開け放して言ひなり放題に垣を持つことを知らないのである。
 父は幼い心を失つてゐた。然しそれは健康な人の心の姿ではないので、父は晩年になつて長男と接触して子供の世界を発見しその新鮮さに驚くやうになつた。洋画を見たり、登山趣味だの進歩的な社会運動だの、さういふものに好奇の目を輝やかせるやうになつたのだが、それはもうたゞ知らない異国の旅行者の目と同じことで、同化し血肉化する本当の素直さは失つてゐる。彼自らの本質的な新鮮さはなかつたのである。
 私は私の心と何の関係もなかつた一人の老人に就て考へ、その老人が、隣家の老翁や叔父や学校の先生よりも、もつと私との心のつながりが稀薄で、無であつたことを考へ、それを父とよばなければならないことを考へる。墨をすらせる子供以外に私に就て考へてをらず、自分の死後の私などに何の夢も托してゐなかつた老人に就て考へ、石がその悲願によつて人間の姿になつたといふ「紅楼夢」を、私自身の現身《うつしみ》のやうにふと思ふことが時々あつた。オレは石のやうだな、と、ふと思ふことがあるのだ。そして、石が考へる。

          ★

 私は「家」といふものが子供の時から怖しかつた。それは雪国の旧家といふものが特別陰鬱な建築で、どの部屋も薄暗く、部屋と部屋の区劃が不明確で、迷園の如く陰気でだだつ広く、冷めたさと空虚と未来への絶望と呪咀の如きものが漂つてゐるやうに感じられる。住む人間は代々の家の虫で、その家で冠婚葬祭を完了し、死んでなほ霊気と化してその家に在るかのやうに形式づけられて、その家づきの虫の形に次第に育つて行くのであつた。
 私の生れて育つた家は新潟市の仮の住宅であつたから田舎の旧家ほどだだつ広い陰鬱さはなかつたけれども、それでも昔は坊主の学校であつたといふ建築で、一見寺のやうな建物で、二抱へほどの松の密林の中にかこまれ、庭は常に陽の目を見ず、松籟のしゞまに沈み、鴉と梟の巣の中であつた。
 私は母のゐる家が嫌ひで、学校から帰ると夜まで外で遊ぶけれども雨が降れば仕方がないので、さういふときは女中部屋へもぐりこむ。女中部屋は屋根裏で、寺の建築の屋根裏だから、どの部屋よりも広く陰気で、おまけに梁の一本が一間あまり切られたところがあり、これは坊主の学校のとき生徒の一人が首をくゝり、不吉を怖れてその部分だけ梁を切つたといふ因縁のものだ。尤もその切口もまつたく煤けて同じ色の黒さで、切つた年代の相違などといふものもすでに時間の底に遠く失はれてゐるのであつた。この屋根裏は迷路のやうに暗闇の奥へ曲りこんでをり、私は物陰にかくれるやうにひそんで、講談本を読み耽つてゐたのである。雪国で雪のふりつむ夜といふものは一切の音がない。知らない人は吹雪の激しさを思ふやうだが、ピュウ/\と悲鳴のやうに空の鳴る吹雪よりも、あらゆる音といふものが完全に絶え、音の真空状態といふものゝ底へ落ちた雪のふりつむ夜のむなしさは切ないものだ。あゝ、又、深雪だなと思ふ。そして、さう思ふ心が、それから何か当のない先の暗さ、はかなさ、むなしさ、そんなものをふと考へずにゐられなくなる。子供の心でも、さうだつた。私は「家」そのものが怖しかつた。
 私の東京の家は私の数多い姉の娘達、つまり姪達が大きくなつて東京の学校へはいる時の寄宿舎のやうなものであつたが、この娘達は言ひ合したやうに、この東京の小さな部屋が自分の部屋のやうで可愛がる気持になるといふ。田舎の家は自分の部屋があらゆる部屋と大きくつながり、自分だけの部屋、といふ感じを持つことができないのだ。そしてその大きな全部、家の一つのかたまりに、陰鬱な何か漂ふ気配があつた。それは家の歴史であり、家に生れた人間の宿命であり、溜息であり、いつも何か自由の発散をふさがれてゐるやうな家の虫の狭い思索と感情の限界がさし示されてゐるやうな陰鬱な気がする。
 別して少年の私は母の憎しみのために、その家を特別怖れ呪はねばならなかつた。
 中学校をどうしても休んで海の松林でひつくりかへつて空を眺めて暮さねばならなくなつてから、私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であつた。そして吹く風であり、風の音であつた。
 私は幼稚園のときから、もうふら/\と道をかへて、知らない街へさまよひこむやうな悲しさに憑かれてゐたが、学校を休み、松の下の茱萸《ぐみ》の藪陰にねて空を見てゐる私は、虚しく、いつも切なかつた。
 私は今日も尚、何よりも海が好きだ。単調な砂浜が好きだ。海岸にねころんで海と空を見てゐると、私は一日ねころんでゐても、何か心がみたされてゐる。それは少年の頃否応なく心に植ゑつけられた私の心であり、ふるさとの情であつたから。
 私は然し、それを気付かずにゐた。そして人間といふものは誰でも海とか空とか砂漠とか高原とか、さういふ涯のない虚しさを愛すのだらうと考へてゐた。私は山あり渓ありといふ山水の風景には心の慰まないたちであつた。あるとき北原武夫がどこか風景のよい温泉はないかと訊くので、新鹿沢温泉を教へた。こゝは浅間高原にあり、たゞ広茫たる涯のない草原で、樹木の影もないところだ。私の好きなところであつた。ところが北原はこゝへ行つて帰つてきて、あんな風色の悪いところはないと言ふ。北原があまり本気にその風景の単調さを憎んでゐるので、そのとき私は始めてびつくり気がついて、私の好む風景に一般性がないことを疑ぐりだしたのである。彼は箱根の風景などが好きであるが、なるほどその後気付いてみると人間の九分九厘は私の好む風景よりも山水の変化の多い風景の方が好きなものだ。そして私は、私がなぜ海や空を眺めてゐると一日ねころんでゐても充ち足りてゐられるか、少年の頃の思ひ出、その原因が分つてきた。私の心の悲しさ、切なさは、あの少年の頃から、今も変りがないのであつた。
 私は「家」に怖れと憎しみを感じ、海と空と風の中にふるさとの愛を感じてゐた。それは然し、同時に同じ物の表と裏でもあり、私は憎み怖れる母に最もふるさとゝ愛を感じてをり、海と空と風の中にふるさとの母をよんでゐた。常に切なくよびもとめてゐた。だから怖れる家の中に、あの陰鬱な一かたまりの漂ふ気配の中に、私は又、私のやみがたい宿命の情熱を托しひそめてもゐたのであつた。私も亦、常に家を逃れながら、家の一匹の虫であつた。
 私の家から一町ほど離れたところに吉田といふ母の実家の別邸があつた。こゝに私の従兄に当る男が住んでをり、女中頭の子供が白痴であつた。私よりも五ツぐらゐ年上であつたと思ふ。
 小学校の四年のとき白痴になつたのであるが、そのときは碁が四級ぐらゐで、白痴にならなければ、いつぱし碁打の専門家になれたかも知れない。白痴になつてからは年毎に力が劣へ、従兄に何目か置かせてゐたのが相先になり、逆に何目か置くやうになつてゐた。白痴は強情であつたが臆病であつた。この別邸の裏は新潟の刑務所だが、碁を打つてお前が負けたら刑務所へ入れるとか、土蔵へ入れると云つて脅かす。白痴の方では何年か前には何目か置かせて打つてゐた自信が今も離れないから、せゝら笑つて(まつたくせゝら笑ふのである。呆れるばかり一徹で強情であつた)やりだすのだが、白痴の方は案に相違、いつも負けてしまふ。はてな、と云つて、石が死にかけてから真剣に考へはじめ、どうして自分が負けるのか原因が分らなくて深刻にあわてはじめる、それが白痴の一徹だから微塵も虚構や余裕がなくて勝つ方の愉しさに察せられるものがある。けれども従兄はそれだけで満足ができないので、本当に土蔵へ入れて一晩鍵をかけておいたり、裏門から刑務所の畑の中に突きだして門を閉ぢたりしたものだ。白痴は一晩ヒイ/\泣いて詫びてゐる。そのくせ懲りずに、翌日になると必ずせゝら笑つてやりだすので、負けて悄然今日だけは土蔵へ入れずに許してくれ、へいつくばつて平あやまりにあやまるあとでせゝら笑つて、本当は負ける筈がないのだと呟いて、首を傾けて考へこんでゐる。
 毎晩負けて土蔵へ入れられる辛《つ》らさに、たうとう家出をした。街のゴミタメを漁つて野宿して乞食のやうに生きてをり、どうしても掴まらなくなり、一年ぐらゐ彷徨してゐるうちに、警察の手で精神病院へ送られた。そのときはもう長い放浪で身体が衰弱してをり、冬の暮方、病院で息をひきとつた。
 それはまだ暮方で、別邸では一家が炉端で食事を終へたところであつたが、突然突風の音が起つて先づ入口の戸が吹き倒れ、突風は土間を吹きぬけて炉端の戸を倒し、台所から奥へ通じる戸を倒し、いつも白痴がこもつてゐた三畳の戸を倒して、とまつた。すべては瞬間の出来事で、けたゝましい音だけが残つてゐた。それは全くある人間の全身の体力が全力をこめて突き倒し蹴倒して行つたものであり、たゞその姿が風であつて見えないだけの話であつた。そこへ病院から電話で、今白痴が息をひきとつたといふ報せがあつたのである。
 私は白痴のゴミタメを漁つて逃げ隠れてゐる姿を見かけたことがあつた。白痴の切なさは私自身の切なさだつた。私も、もしゴミタメをあさり、野に伏し縁の下にもぐりこんで生きてゐられる自信があるなら、家を出たい、青空の
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