藤高明と若槻礼次郎を訪れたのである。若槻礼次郎邸では名刺を置いてきたゞけだつたが、加藤高明のところでは招ぜられて加藤高明に会ひ、一中学生の私に丁重極まる言葉で色々父の容態を質問された。私はもう会話も覚えてをらぬ。全てを忘れてゐるが、私はこの大きな男、まつたく、入道のやうな大坊主で、顔の長くて円くて大きいこと、海坊主のやうな男であつたが、ひどく大袈裟な物々しい男のくせに、私と何の距てもない心の幼さが分るやうであつた。私の父は頑固で物々しく気むづかしく、そのへんの外貌は似たところもあつたが、私の父の方がもつと子供つぽいところがあつた。然し私の父の本当の心は私と通じる幼さは微塵もなかつた。父は大人であつた。夢がなかつた。加藤高明には、妙な幼さが私の心にやにはに通じてきた。私はすぐホッとした気持になつてゐた。そして私の父のスケールの小さゝを痛切に感じたのである。私はそのとき十八であつた。
父は客間に「七不堪」といふ額をかけて愛してゐたが、誰だか中国人の書いたもので、七の字が七と読めずに長の字に見え、誰でも「長く堪へず」と読む。客がさう読んで長居をてれるからをかしいので父は面白がつてゐたが、今では私がたつた一つ父の遺物にこれだけ所蔵して客間にかけてゐる。又父はその蔵書印に「子孫酒に換ふるも亦《また》可」といふのを彫らせて愛してをり、このへんは父の衒気《げんき》ではなく多分本心であつたと思ふが、私も亦、多分に通じる気持があり、私にとつてもそれらが矢張り衒気ではないのだが、決して深いものではなく、見様によつては大いに空虚な文人趣味の何か気質的な流れなので、私はいつも淋しくなり、侘しくなり、そして、なさけなくなるのである。
私の父は代議士の外に新聞社長と株式取引所の理事長をやり、私慾をはかればいくらでも儲けられる立場にゐたが全く私慾をはからなかつた。又、政務次官だかに推されたとき後輩を推挙して自分はならなかつた。万事やり方がさうで、その心情は純粋ではなかつたと思ふ。本当の素直さがなかつたのだと私は思ふ。その子供のそしてさういふ気質をうけてゐる私であるゆゑ分るのだ。私の父は酒間に豪快で、酔態|淋漓《りんり》、然し人前で女に狎れなかつたさうであるから私より大いに立派で、私はその点だらしがなくて全く面目ないのだが、私は然し酒間に豪放|磊落《らいらく》だつたといふ父を妙に好まない。
私は父の伝記の中で、父の言葉に一つ感心したところがあつて、それは取引所の理事長の父がその立場から人に言ひきかせたといふ言葉で、モメゴトの和解に立つたら徹夜してでも一気に和解させ、和解させたらその場で調印させよ、さもないと、一夜のうちに両方の考へがぐらつき又元へ逆戻りするものだ、と言ひきかせてゐたさうだ。私は尾崎士郎と竹村書房のモメゴトの時、私が間に立つて和解させたが、その場で調印を怠つたために翌日尾崎士郎から速達がきて逆戻りをし、親父の言葉が至言であるのを痛感したことがあつた。そして私は又しても親父の同じ道を跡を追つてゐる私を見出して、非常に不愉快な思ひがしたものであつた。
父の伝記の中で、私の父が十八歳で新潟取引所の理事の時、十九歳で新潟新聞の主筆であつた尾崎|咢堂《がくどう》が父のことを語つてゐる話があり、私の父は咢堂の知る新潟人のうち酔つ払つて女に狎れない唯一の人間だつたさうだが、それにつけたして「然し裏面のことはどうだか知らない」と咢堂は特につけたしてゐるのである。咢堂といふ人は何事につけても特にかういふ注釈づきの見方をつけたさずにゐられぬ人で、その点政治家よりも文学者により近い人だ。見方が万事人間的、人性的なので、それを特につけたして言ひ加へずにゐられぬといふ気質がある。私の親父にはそれがない。ところが私にはそれが旺盛で、その点では咢堂の厭味を徹底的にもつてゐる。自分ながらウンザリするほど咢堂的な臭気を持ちすぎてゐる。そして私は咢堂によつて「然し裏面のことは知らない」とつけたされてゐる父が、まるで私自身の不愉快な気質によつて特に冒涜されてゐるやうで、私は父に就て考へるたびに咢堂の言葉を私に当てはめて思ひ描いて厭な気持になるのであつた。だから私は、私自身の体臭を嫌ふごとくに咢堂を嫌ふ気持をもつてゐる。私の父は咢堂の辛辣さも甘さも持たなかつた。咢堂が二流の人物なら、私の父は三流以下のボンクラであつた。
私は父の気質のうちで最も怖れてゐるのは、父の私に示した徹底的な冷めたさであつた。母と私は憎しみによつてつながつてゐたが、私と父とは全くつながる何物もなかつた。それは父が冷めたいからで、そして父が、私を突き放してゐたからで、私も突き放されて当然に受けとつてをり、全くつながるところがなかつた。
私は私の驚くべき冷めたさに時々気づく。私はあらゆる物を突き放してゐる時がある。その裏側に何があるかといふと、さういふ時に、実は私はたゞ専一に世間を怖れてゐるのである。私が個々の物、個々の人を突き放す時に、私は世間全体を意識してをり、私は私自身をすら突き放して世間の思惑に身売しようとする。私は父がさうであつたと思ふ。父は私利、栄達をはからなかつたとき、自分を突き放して、実は世間の思惑に身売りしてゐたやうに思ふ。私の親父は田舎政治家の親分であり、そしていゝ気になつてゐた。
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私の冷めたさの中には、父の冷めたさの外に母からの冷めたさがあつた。私の母方は吉田といふ大地主で、この一族は私にもつながるユダヤ的な鷲鼻をもち、母の兄は眼が青かつた。母の兄はまつたくユダヤの顔で、日本民族の何物にも似てゐなかつた。この鷲鼻の目の青い老人は十歳ぐらゐの私をギラ/\した目でなめるやうに擦り寄つてきて、お前はな、とんでもなく偉くなるかも知れないがな、とんでもなく悪党になるかも知れんぞ、とんでもない悪党に、な、と言つた。私はその薄気味悪さを呪文のやうに覚えてゐる。
私の母は継娘に殺されようとし、又、持病で時々死の恐怖をのぞき、私の子供の頃は死と争つてヒステリーとなり全く死を怖れてゐる女であつたが、年老いて、私と和解して後は凡そ死を平然と待ちかまへてゐる太々《ふてぶて》しい老婆であつた。私には死を突き放した太々しさは微塵もなく、凡そ死を怖れる小心だけが全部の私の思ひなのだが、私は然し、母から私へつながつてゐる異常な冷めたさを知つてゐる。
私の母は凡そ首尾一貫しない女で、非常にケチなくせに非常に豪放で、一銭を惜しむくせに人にポン/\物をやり、一枚の瀬戸物を惜しむ反面、全部の瀬戸物をみんな捨てゝ突然新調したりする、移り気とも違ひ、気分屋とも違ふ、惜しむ時と捨てる時と心につながりがないので、惜しむ時はケチで、捨てる時は豪快で、その両方を関係させずに平然としてゐられる女であつた。人に気前よく物を呉れてやる時にも別に相手の人に愛情はないので、それはそれだけで切り離されてをり、二度目を当にしてももう連絡はないので、今度はひどくケチな反面を見せられてウンザリさせられたりするのである。人のことなど考へてやしないのだ。何でも当然と思つて受け入れる。どうでもいゝやと底で思ひ決してゐるからで、凡そ根柢的に冷めたい人であつた。私の家には書生がたくさんゐた。今は社長だの重役だの市長だの将軍だのになつてゐるが、みんな親父の人柄はのみこめても、母の人柄は今でも怪物のやうにわけが分らなく思つてゐる。本当は微塵も甘さがない。そのくせ疑ることも知らない。なんでもそのまゝ受け入れる。
かういふ茫洋たる女だからめつたに思ひつめて憎んだりしないが、二人の継娘と私のことだけは憎んだので、かういふ女に憎まれては、子供の私がほと/\難渋したのは当然であり、私は小学校のときから、家出をしようか自殺しようか、何度も迷つたことがあつた。私が本来ヒネクレた上にもヒネクレたのは当然で、私は小学校の時から一文の金も貰へず何も買つて貰へないので、盗みを覚えた。中学へ行つても一文の小遣ひも貰へない。私は物を持ちだして売り、何でも通帳で買つてヂャン/\人にやつた。欲しくない物まで買つた。私が使ふ為でなく人にやるためだ。人に物をやるのは人に愛されたい為ではなく、母を嘆かせるためで、母に対する反抗からであつた。したがつて、私の胸の真実は常にはりさけるやうであつた。
私は小学校の時から近眼であつたが、中学へはいつたときは眼鏡なしでは最前列へでても黒板の字が見えない。私の母は眼鏡を買つてくれなかつた。私は眼が見えなくて英語も数学も分らなくなり、その真相が見破られるのが羞しくて、学校を休むやうになつた。やうやく眼鏡を買つて貰へたので天にも昇る心持で今度は大いに勉強しようと思つたのに、私が又不注意でどういふわけだか黒眼鏡を買つてしまつたのだ。私は決して黒眼鏡を買つたつもりではないので、こればかりは今もつて分らない。多分眼鏡屋が間違へたのだと思ふ。私は黒眼鏡だとは知らずにかけて学校へ行つた。友達がめづらしがつてひつたくり買つたその日、眼鏡がこはれてしまつた。
元より私は再び買つてもらへる筈がないのは分りきつてをり、幸ひ、黒眼鏡であつた為友人達は元々私は目が悪くないのに伊達でかけてきたのだらうと考へて、翌日から眼鏡なしでも買つて貰へないせゐだと思はれないのが幸せであつた。私は仕方がないので本格的に学校を休んで、毎日々々海の松林でねころんでゐた。そして私は落第した。然し私は学校を休んでゐても別に落第する必要はなかつたのだ。私は然し母を嘆かせ苦しめ反抗せずにゐられないので、わざ/\答案に白紙をだしたのである。先生が紙をくばる。くばり終ると私は特に跫音《あしおと》高く道化た笑ひを浮べて白紙の答案をだす。みんな笑ふ。私は英雄のやうな気取つた様子でアバヨと外へ出て行くが、私の胸は切なさで破れないのが不思議であつた。
私が落第したので私の家では私に家庭教師をつけた。医科大学の秀才で、金野巌といふ人で、盛岡の人であつた。然し、私が眼鏡がなくて黒板の字が見えないから学校へ行かないといふことは金野先生も知らないし、意地つ張りで見栄坊の私はそれを白状することが出来ないので、相変らず毎日学校を休み、天気の良い日は海の松林で、雨の日は学校の横手のパン屋の二階でねころんでゐた。そして学校を追ひだされたのである。そして私は東京の中学へ入学したが、母と別れることができる喜びで、そして、たぶん東京では眼鏡を買ふことができ、勉強することが出来る喜びで、希望にかゞやいてゐた。私は然し母と別れてのち母を世の誰よりも愛してゐることを知つた。
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新潟中学の私は全く無茶で、私は無礼千万な子供であり、姓は忘れてしまつたがモデルといふ渾名の絵の先生が主任で、欠席届をだせといふ。私は偽造してきて、ハイヨといつて先生に投げて渡した。先生は気の弱い人だから恨めしさうに怒りをこめて睨んだだけだが、私は今でも済まないことだと思つてゐる。先生にバケツを投げつけて窓から逃げだしたり、毎日学校を休んでゐるくせに、放課後になると柔道だけ稽古に行く。先生に見つかつて逃げだす。そして、北村といふチョーチン屋の子供だの大谷といふ女郎屋の子供と六花会といふのを作り、学校を休んでパン屋の二階でカルタの稽古をしてゐた。カルタといふのは小倉百人一首のことで、正月やるあの遊びで、これを一年半も毎日々々学校を休んで夢中で練習してゐたのだから全く話にならない。大谷といふ女郎屋の倅は二年生のくせに薬瓶へ酒をつめて学校で飲んでゐる男で、試験のとき英語の先生のところへ忍んで行つて試験の問題を盗んできたことがあつた。私が家から刀を盗んできて売つて酒をのんだこともあり、一度だけだが、料理屋でドンチャン騒ぎをやらかしたことがある。かういふことは大谷が先生であつたやうで、外に渡辺といふ達人もゐた。これが中学二年生の行状で、荒れ果てゝゐたが、私の魂は今と変らぬ切ないものであつた。この切なさは全く今と変らない。恐らく終生変らず、又、育つこともないもので、怖れ、恋ふる切なさ、逃げ、高まりたい切なさ、
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