って世に容れられず、又自らはその真相を悟り得ずに不満の一生を終った武蔵という人は、悲劇的な人でもあるし、戯画的な滑稽さを感じさせる人でもある。彼は世の大人たちに負けてしまった。柳生派の大人たちに負け、もっとつまらぬ武芸のあらゆる大人たちに負けてしまった。彼自身が大人になろうとしなければ、負けることはなかったのだ。
武蔵は柳生兵庫のもとに長く滞在していたことがあったという。兵庫は柳生派随一の使い手と言われた人だそうで、兵庫は武蔵を高く評価していたし、武蔵も亦兵庫を高く評価していた。二人は毎日酒をくんだり碁を打ったりして談笑し、結局試合をせずに別れてしまった。心法に甲乙なきことを各々認め合っていたので試合までには及ばなかったのだという話で、なるほどあり得ることだと頷《うなず》けることではあるが、然し僕は武蔵のために甚だ之をとらないものだ。試合をしなければ武蔵の負けだ。試合の中にだけしか武蔵の剣はあり得ず、又、試合を外に武蔵という男も有り得ない。試合は武蔵にとっては彼の創作の芸術品で、試合がなければ彼自身が存在していないのだ。談笑の中に敵の心法の甲乙なきを見て笑って別れるような一人前らしい生き方を覚えては、もう武蔵という作品は死滅してしまったのだ。
何事も勝負に生き、勝負に徹するということは辛いものだ。僕は時々日本棋院の大手合を見物するが、手合が終ると、必ず今の盤面を並べ直して、この時にこう、あの時にはあの方がというような感想を述べて研究し合うものである。ところが、勝った方は談論風発、感想を述べては石を並べその楽しそうな有様お話にならないのに、負けた方ときたら石のように沈んでしまって、まさに永遠の恨みを結ぶかの如く、釈然としないこと甚だしい。僕でも碁を打って負けた時には口惜しいけれども、その道の商売人の恨みきった形相は質的に比較にならないものがある。いのちを籠《こ》めた勝負だから当然の話だけれども、負けた人のいつまでも釈然としない顔付というものは、眺めて決して悪い感じのものではない。中途半端なところがないからである。テレ隠しに笑うような、そんなところが全然ないのだ。
将棋の木村名人は不世出の名人と言われ、生きながらにしてこういう評価を持つことは凡そあらゆる芸界に於いて極めて稀れなことであるが、全く彼は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である。碁打の方には、この闘志の片鱗だに比肩すべき人がない。相撲取にも全然おらぬ。
けれども、木村名人も、もう何度負けたか知れないのだ。これに比べれば武蔵の道は陰惨だ。負けた時には命がない。佐々木小次郎は一生に一度負けて命を失い、武蔵はともかく負けずに済んで、畳の上で往生を遂げたが、全く命に関係のない碁打や将棋指ですら五十ぐらいの齢になると勝負の激しさに堪えられない等と言いだすのが普通だから、武蔵の剣を一貫させるということは正に尋常一様のことではなかった。僕がそれを望むことは無理難題には相違ないが、然しながら武蔵が試合をやめた時には、武蔵は死んでしまったのだ。武蔵の剣は負けたのである。
勝つのが全然嬉しくもなく面白くもなく何の張合いにもならなくなってしまったとか、生きることにもウンザリしてしまったとか、何か、こう魔にみいられたような空虚を知って試合をやめてしまったというわけでもない。それは『五輪書』という平凡な本を読んでみれば分ることだ。ただ、だらだらと生きのびて『五輪書』を書き、その本のおかげをもって今日も尚その盛名を伝えているというわけだが、然し、このような盛名が果して何物であろうか。
四 再びわが青春
淪落の青春などと言って、まるで僕の青春という意味はヤケとかデカダンという意味のように思われるかも知れないけれども、そういうものを指しているわけでは毛頭ない。
そうかと云って、僕自身の生活に何かハッキリした青春の自覚とか讃歌というものが有るわけでもないことは先刻白状に及んだ通りで、僕なんかは、一生ただ暗夜をさまよっているようなものだ。けれども、こういうさまよいの中にも、僕には僕なりの一条の灯の目当ぐらいはあるもので、茫漠たる中にも、なにか手探りして探すものはあるのである。
非常に当然な話だけれども、信念というようなものがなくて生きているのは、あんまり意味のないことである。けれども、信念というものは、そう軽々に持ちうるものではなくて、お前の信念は何だ、などと言われると、僕などまっさきに返答が出来なくなってしまうのである。それに、信念などというものがなくとも人は生きていることに不自由はしないし、結構幸福だ、ということになってくると、信念などというものは単に愚か者のオモチャであるかも知れないのだ。
実際、信念というものは、死することによって初めて生きることが出来るような、常に死と結ぶ直線の上を貫いていて、これも亦ひとつの淪落であり、青春そのものに外ならないと言えるであろう。
けれども、盲目的な信念というものは、それが如何ほど激しく生と死を一貫して貫いても、さまで立派だと言えないし、却《かえ》って、そのヒステリイ的な過剰な情熱に濁りを感じ、不快を覚えるものである。
僕は天草四郎という日本に於ける空前の少年選手が大好きで、この少年の大きな野心とその見事な構成に就て、もう三年越し小説に書こうと努めている。そのために、切支丹《キリシタン》の文献をかなり読まねばならなかったけれども、熱狂的な信仰をもって次から次へ堂々と死んで行った日本の夥《おびただ》しい殉教者達が、然し、僕は時に無益なヒステリイ的な饒舌のみを感じ、不快を覚えることがあるのであった。
切支丹は自殺をしてはいけないという戒めがあって、当時こういう戒めは甚だ厳格に実行され、ドン・アゴスチノ小西行長は自害せず刑場に引立てられて武士らしからぬ死を選んだ。又、切支丹は武器をとって抵抗しては殉教と認められない定めがあって、そのために島原の乱の三万七千の戦死者は殉教者とは認められていないのだが、この掟によって、切支丹らしい捕われ方をするために、捕吏に取囲まれたとき、わざわざ腰の刀を鞘ぐるみ抜きとって遠方へ投げすてて縄を受けたなどという御念の入った武士もあったし、そうかと思うと、主のために殉教し得る光栄を与えてもらえたと言って、首斬りの役人に感謝の辞と祈りをささげて死んだバテレンがあったりした。当時は殉教の心得に関する印刷物が配布されていて、信徒達はみんな切支丹の死に方というものを勉強していたらしく、全くもって当時教会の指導者達というものは、恰《あたか》も刑死を奨励するかのような驚くべきヒステリイにおちいっていたのである。無数の彼等の流血は凄惨眼を掩《おお》わしめるものがあるけれども、人々を単に死に急がせるかのようなヒステリイ的性格には時に大いなる怒りを感じ、その愚かさに歯がみを覚えずにいられぬ時もあったのだ。
いのちにだって取引というものがある筈だ。いのちの代償が計算外れの安値では信念に死んでも馬鹿な話で、人々は十銭の茄子《なす》を値切るのにヒステリイは起さないのに、いのちの取引に限ってヒステリイを起してわけもなく破産を急ぐというのは決して立派なことではない。
宮本武蔵は吉岡一門百余名を相手に血闘の朝、一乗寺下り松の果し場へ先廻りして急ぐ途中、たまたま八幡様の前を通りかかって、ふと、必勝を祈願せずにいられない気持になり、まさに神前に額《ぬか》ずこうとして、思いとどまった。自力で勝ち抜かねばならないという勇猛心を駆り起したのである。
僕はこの武蔵を非常にいとしいと思うけれども、これはただこれだけの話で、この出来事を彼の一生に結びつけて大きな意味をもたせることには同感しない。武蔵のみではないのだ。如何なる神の前であれ、神の前に立ったとき何人が晏如《あんじょ》たり得ようか。神域とかお寺の境内というものは閑静だから、僕は時々そこを選んで散歩に行くが、一片の信仰もない僕だけれども、本殿とか本堂の前というものは、いつによらず心を騒がせられるものである。祈願せずにいられぬような切ない思いを駆り立てられる。さればといって本当に額ずくだけのひたむきな思いにもなりきれないけれども、こんなに煮えきらないのは怪しからぬことだから、今度から思いきって額ずくことにしようと思って、或日決心して氏神様へでかけて行った。愈々《いよいよ》となってお辞儀だけは済ましたけれども、同時に突然僕の身体に起ったギコチのなさにビックリして、やっぱり僕のような奴は、心にどんな切ない祈願の思いが起っても、それはただ心の綾《あや》なのだから実際に頭を下げたりしてはいけないのだと諦らめた。
自殺した牧野信一はハイカラな人で、人の前で泥くさい自分をさらけだすことを最も怖れ慎んでいた人だったのに、神前や仏前というと、どうしても素通りの出来ない人で、この時ばかりは誰の目もはばからず、必ずお賽銭をあげて丁寧に拝む人であった。その素直さが非常に羨しいと思ったけれども、僕はどうしても一緒に並んで拝む勇気が起らず、離れた場所で鳩の豆を蹴とばしたりしていた。
数年前、菱山修三が外国へ出帆する一週間ぐらい前に階段から落ちて喀血《かっけつ》し、生存を絶望とされたことがあった。僕も、もう、菱山は死ぬものとばかり思っていたのに、一年半ぐらいで恢復《かいふく》してしまった。菱山の話によると、肺病というものは、病気を治すことを人生の目的とする覚悟が出来さえすれば必ず治るものだ、と言うのであった。他の人生の目的を一切断念して、病気を治すことだけを人生の目的とするのである。そうして、絶対安静を守るのだそうだ。
その後、僕が小田原の松林の中に住むようになったら、近所|合壁《かっぺき》みんな肺病患者で、悲しい哉、彼等の大部分の人達は他の一切を放擲《ほうてき》して治病を以《もっ》て人生の目的とする覚悟がなく、何かしら普通人の生活がぬけきれなくて中途半端な闘病生活をしていることが直ぐ分った。菱山よりも遥かに軽症と思われた人達が、読書に耽ったり散歩に出歩いたりしているうちに忽ちバタバタ死んで行った。治病を以て人生の目的とするというのも相当の大事業で、肺病を治すには、かなり高度の教養を必要とするということをさとらざるを得なかったのだ。
死ぬることは簡単だが、生きることは難事業である。僕のような空虚な生活を送り、一時間一時間に実のない生活を送っていても、この感慨は痛烈に身にさしせまって感じられる。こんなに空虚な実のない生活をしていながら、それでいて生きているのが精一杯で、祈りもしたい、酔いもしたい、忘れもしたい、叫びもしたい、走りもしたい。僕には余裕がないのである。生きることが、ただ、全部なのだ。
そういう僕にとっては、青春ということは、要するに、生きることのシノニイムで、年齢もなければ、又、終りというものもなさそうである。
僕が小説を書くのも、又、何か自分以上の奇蹟を行わずにはいられなくなるためで、全くそれ以外には大した動機がないのである。人に笑われるかも知れないけれども、実際その通りなのだから仕方がない。いわば、僕の小説それ自身、僕の淪落のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇蹟に合一せしめるということを、唯一の情熱とする以外に外の生き方を知らなくなってしまったのだ。
これは甚だ自信たっぷりのようでいて、実は之ぐらい自信の欠けた生き方もなかろう。常に奇蹟を追いもとめるということは、気がつくたびに落胆するということの裏と表で、自分の実際の力量をハッキリ知るということぐらい悲しむべきことはないのだ。
だが然し、持って生れた力量というものは、今更悔いても及ぶ筈のものではないから、僕に許された道というのは、とにかく前進するだけだ。
僕の友達に長島萃という男があって、八年前に発狂して死んでしまったけれども、この男の父親は長島隆二という往昔名高い陰謀政治家であった。この政治家は子供に向って、まともな仕事をするな、山師になれ、ということを常々説いていたそうで、
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