た男である。碁打の方には、この闘志の片鱗だに比肩すべき人がない。相撲取にも全然おらぬ。
けれども、木村名人も、もう何度負けたか知れないのだ。これに比べれば武蔵の道は陰惨だ。負けた時には命がない。佐々木小次郎は一生に一度負けて命を失い、武蔵はともかく負けずに済んで、畳の上で往生を遂げたが、全く命に関係のない碁打や将棋指ですら五十ぐらいの齢になると勝負の激しさに堪えられない等と言いだすのが普通だから、武蔵の剣を一貫させるということは正に尋常一様のことではなかった。僕がそれを望むことは無理難題には相違ないが、然しながら武蔵が試合をやめた時には、武蔵は死んでしまったのだ。武蔵の剣は負けたのである。
勝つのが全然嬉しくもなく面白くもなく何の張合いにもならなくなってしまったとか、生きることにもウンザリしてしまったとか、何か、こう魔にみいられたような空虚を知って試合をやめてしまったというわけでもない。それは『五輪書』という平凡な本を読んでみれば分ることだ。ただ、だらだらと生きのびて『五輪書』を書き、その本のおかげをもって今日も尚その盛名を伝えているというわけだが、然し、このような盛名が果して何物であろうか。
四 再びわが青春
淪落の青春などと言って、まるで僕の青春という意味はヤケとかデカダンという意味のように思われるかも知れないけれども、そういうものを指しているわけでは毛頭ない。
そうかと云って、僕自身の生活に何かハッキリした青春の自覚とか讃歌というものが有るわけでもないことは先刻白状に及んだ通りで、僕なんかは、一生ただ暗夜をさまよっているようなものだ。けれども、こういうさまよいの中にも、僕には僕なりの一条の灯の目当ぐらいはあるもので、茫漠たる中にも、なにか手探りして探すものはあるのである。
非常に当然な話だけれども、信念というようなものがなくて生きているのは、あんまり意味のないことである。けれども、信念というものは、そう軽々に持ちうるものではなくて、お前の信念は何だ、などと言われると、僕などまっさきに返答が出来なくなってしまうのである。それに、信念などというものがなくとも人は生きていることに不自由はしないし、結構幸福だ、ということになってくると、信念などというものは単に愚か者のオモチャであるかも知れないのだ。
実際、信念というものは、死することによって
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