ぶった刀なのだ。この機会を逃してならぬことを武蔵は心得ていた。なぜなら、小次郎に時間を許せば、彼も手練《てだれ》の剣客だから、振りかぶった剣形の中から冷静をとりもどしてくるからである。
武蔵は急速に近づいて行った。大胆なほど間をつめた。小次郎は斬り下した。だが、小次郎の速剣は初太刀よりもその返しが更に怖しい。もとより武蔵は前進をとめることを忘れてはいない。間一髪のところで剣尖をそらして、前進中に振り上げた木刀を片手打ちに延ばして打ち下した。小次郎は倒れたが、同時に武蔵の鉢巻が二つに切れて下へ落ちた。
小次郎は倒れたが、まだ生気があった。武蔵が誘って近づくと果して大刀を横に斬り払ったが、武蔵は用意していたので巧みに退き袴《はかま》の裾《すそ》を三寸程切られただけであった。然しその瞬間木刀を打ち下して小次郎の胸に一撃を加えていた。小次郎の口と鼻から血が流れて、彼は即死をとげてしまった。
武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」覚悟を剣法の極意だと言っているが、彼自身の剣法はそういう悟道の上へ築かれたものではなかった。晩年の著『五輪書』がつまらないのも、このギャップがあるからで、彼の剣法は悟道の上にはなく、個性の上にあるのに、悟道的な統一で剣法を論じているからである。
武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆に之を武器に用いる剣法である。溺れる者藁もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、之を利用して勝つ剣法なのだ。
之が本当の剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たねばならぬ。妥協の余地がないのである。こういう最後の場では、勝って生きる者に全部のものがあり、正義も自ら勝った方にあるのだから。是が非でも勝つことだ。我々の現下の戦争も亦然り。どうしても勝たねばならぬ。
ところが甚だ気の毒なことには、武蔵の剣法は当時の社会には容れられなかった。形式主義の柳生流が全盛で、武蔵のような勝負第一主義は激しすぎて通用の余地がなかったのだ。
武蔵の剣法も亦、いわば一つの淪落の世界だと僕は思う。世に容れられなかったから淪落の世界だと言うのではないが、然し、世に容れられなかった理由の一つは、たしかにその淪落の性格のためだとは言えるであろう。
一か八かであるが、しかも額面通りではなく
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