ある。忘れていた激情がどこからか溢れてきて、僕はこの女の人と結婚する気持になった。それから一ヶ月ぐらいというもの、二人は三日目ぐらいずつに会っていたが、淪落の世界に落ちた僕はもう昔の僕ではなく、突然取乱して激情に溺《おぼ》れたりしても、ほんとはこの人がそんな激しい対象として僕の心に君臨することはもう出来なくなっていたのである。
女の人がこれに気付いて先に諦らめてしまったのは非常に賢明であったと僕は思う。女の人が、もう二度と会わない、会うと苦しいばかりだから、ということを手紙に書いてよこしたとき、僕も全く同感した。そうして、まったく同感だから再び会わないことにしましょう、という返事をだして、実際これで一つの下らないことがハッキリ一段落したという幸福をすら覚えた。今まで偶像だったものをハッキリ殺すことができたという喜びであった。この偶像が亡びても、決して亡びることのない偶像が生れてしまったのだから、仕方がない。さりとて僕にはヌケヌケとスタンダールのメチルド式の言い種《ぐさ》をたのしむほどの度胸はないし、過去などはみんな一片の雲になって、然し、スタンダールの墓碑銘の「生き、書き、愛せり」ということが、改めてハッキリ僕の生活になったのだ。だが、愛せり、は蛇足かも知れぬ。生きることのシノニイムだ。尤も、生きることが愛すことのシノニイムだとも言っていい。
三 宮本武蔵
突然宮本武蔵の剣法が現れてきたりすると驚いて腹を立てる人があるかも知れないけれども、別段に鬼面人を驚かそうとする魂胆があるわけでもなく、まして読者を茶化す思いは寸毫《すんごう》といえども無いのである。僕には、僕の性格と共に身についた発想法というものがあって、どうしてもその特別の発想法によらなければ論旨をつくし難いという定めがある。僕の青春論には、どうしても宮本武蔵が現れなくては納まりがつかないという定めがあるから、そのことは読んで理解していただく以外に方法がない。
大東亜戦争このかた「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」という古来の言葉が愛用されて、我々の自信を強めさせてくれている。先日読んだ講釈本によると柳生流の極意だということであるが、真偽の程は請合わない。とにかく何流かの極意の言には相違ないので、僕が之から述べようとする宮本武蔵の試合ぶりは、常に正しくこの極意の通りに外ならなかっ
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