中で俳句の話をしながら帰ってきたが、この人は虚子が好きで、子規を「激しすぎるから」嫌いだ、と言っていた。
 けれども『仰臥漫録』を読むと、号泣又号泣したり、始めて穴をみて泣いたりしている子規が同じ日記の中で「五月雨ヲアツメテ早シ最上川(芭蕉)此句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句ノヤウニ思フタノデ今日迄古今有数ノ句トバカリ信ジテ居タ今日フト此句ヲ思ヒ出シテツクヾヽト考へテ見ルト「アツメテ」トイフ語ハタクミガアツテ甚ダ面白クナイソレカラ見ルト五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒(蕪村)トイフ句ハ遥カニ進歩シテ居ル」という実のない俳論をやっている。子規の言っていることは単に言葉のニュアンスに関する一片の詩情であって、何事を歌うべきか、如何なる事柄を詩材として提出すべきか、という一番大切な散文精神が念頭にない。号泣又号泣の子規は激しいけれども、俳句としての子規は激しくなく平凡である。『白描』の歌人を菱山修三は激しすぎるから厭だ、と言った。まったくこの歌は激しいのだから、厭だという菱山の言もうなずけるが、僕はこの激しさに惹かれざるを得ぬ。
 僕も一昔前は菊五郎の踊りなど見て、それを楽しんだりしたこともあったが、今はもうそういう楽しみが全然なくなってしまった。曲馬団だとか、レビューだとか、酒だとか、ルーレットだとか、そういう現実と奇蹟の合一、肉体のある奇蹟の追求だけが生き甲斐になってしまったのである。
 子規は単なる言葉のニュアンスなどにとらわれて俳句をひねっているけれど、その日常は号泣又号泣、甘やかしようもなく、現実の奇蹟などを夢みる甘さはなかったであろう。然るに僕は、一切の言葉の詩情に心の動かぬ頑固な不機嫌を知った代りに、現実に奇蹟を追うという愚かな甘さを忘れることが出来ない。忘れることが出来ないばかりでなく、生存の信条としているのである。
 大井広介は僕が決して畳の上で死なぬと言った。自動車にひかれて死ぬとか、歩いてるうちに脳溢血でバッタリ倒れるとか、戦争で弾に当るとか、そういう死に方しか有り得ないと言う。どこでどう死んでも同じことだけれども、何か、こう、家庭的なものに見離されたという感じも、決して楽しいものではないのである。家庭的ということの何か不自然に束縛し合う偽りに同化の出来ない僕ではあるが、その偽りに自分を縛って甘んじて安眠したいと時に祈る。
 一生涯めくら滅法に走りつづけて
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