ョンだから、レビューは甚だ貧弱である。女が七八人に男が一人しかいない。ところが、このたった一人の男が僕の見参した今迄の例をくつがえして、この男が舞台へでると、女の方が貧弱になってしまうのである。何か木魚《もくぎょ》みたいなものを叩いてアホダラ経みたいなものを唸ったりしていたのを思いだすが、堂々たる男の貫禄が舞台にみち、男の姿が頭抜けて大きく見えたばかりでなく、女達が男のまわりを安心しきって飛んでいる蝶のような頼りきった姿に見えて、うれしい眺めであった。まったくレビューの男にあんな頼もしい貫禄を見ようとは予期しないところであった。
こういう印象は日がたつにつれて極端なものになる。男の印象が次第に立派に大きなものになりすぎて、ほかのレビューの男達が益々馬鹿に見えて仕方がなくなるのである。あれぐらいの芸人だから浅草へ買われてこない筈はなかろうと思い、もう一度見参したいと思ったが、あいにく名前を覚えていない。会えば分る筈だから、浅草や新宿でレビューを見るたびに注意したが再会の機会がない。
ところが、この春、浅草の染太郎というウチで淀橋太郎氏と話をした。この染太郎はお好み焼屋だが、花柳地の半玉相手のお好み焼と違って、牛てんだのエビてんなどは余り焼かず、酒飲み相手にオムレツでもビフテキでも魚でも野菜でも何でも構わず焼いてしまう。近頃我々の仲間、『現代文学』の連中は会というと大概このウチでやるようなことになり、我々の大いに愛用するウチだけれども、我々のほかにはレビュー関係の人達が毎晩飲みにくる所なのである。そういうわけで淀橋太郎氏と時々顔を合せて話を交したりするようになり、ある日、京都ムーランの話がでた。そこで、雲をつかむような話で所詮分る筈がないだろうと思ったけれども、同じ頃、活動小屋のアトラクションにでた男の名前が分らないかと訊いてみた。すると僕が呆れ果てたことにはタロちゃんちょっと考えていたが、それはモリシンです、といともアッサリ答えたものである。当時京都の活動小屋へアトラクションに出たのはモリシン以外にない。小屋の場所も人数もそっくり同じだから疑う余地がないと言うのであった。一緒にいた数人のレビューの人達がみんなタロちゃんの言を裏書きした。モリシンは渾名《あだな》で、芸名はモリカワシン、多分森川信と書くのか、そういう人であった。常に流れ去り流れ来っているようなこの人々
前へ
次へ
全36ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング