係が起った場合に、自己を犠牲にすることが出来るか。甘んじて人に席を譲るか。むしろ他人を傷つけて自らは何の悔いもない底の性格をつくり易いと言い得るであろう。
蓋《けだ》し、大人の世界に於て、犠牲とか互譲とかいたわりとか、そういうものが礼儀でなしに生活として育っているのは淪落の世界なのである。淪落の世界に於ては、人々は他人を傷けることの罪悪を知り、人の窮迫にあわれみと同情を持ち、口頭ではなく実際の救い方を知っており、又、行う。又、彼等は人の信頼を裏切らず、常に仁義というものによって自らの行動を律しようとするのである。
とはいえ、彼等の仁義正しいのは主として彼等同志の世界に於てだけだ。一足彼等の世界をでると、つまり淪落の世界に属さぬ人々に接触すると、彼等は必ずしも仁義を守らぬ。なぜなら淪落の人々は概《おおむ》ね性格破産者的傾向があるし、又いくらかずつ悪党で、いわば自分自身を守るために、同僚を守ったり、彼等の秩序を守ったりするけれども、外部に対してまで秩序を守る必要を認めないからでもあるし、大体が彼等の秩序と一般家庭の秩序とは違っているから、別に他意がなくとも食い違うことが出来てしまう。
乞食を三日すると忘れられない、と言うけれども、淪落の世界も、もし独立|不羈《ふき》の魂を殺すことが出来るなら、これぐらい住み易く沈淪し易いところもない。いわば、着物もいらず住宅もいらず、野生の食物にも事欠かぬ南の島のようなものだ。だから僕は淪落の世界を激しく呪い、激しく憎む。不羈独立の魂を失ったら、僕などはただ肉体の屑にすぎない。だから僕の魂は決してここに住むことを欲しないにも拘らず、どうして僕の魂は、又、この世界に憩いを感じ、ふるさとを感じるのであろうか。
今年の夏、僕は新潟へ帰って、二十年ぶりぐらいで、白山様の祭礼を見た。昔の賑いはなかったが、松下サーカスというのが掛っていた。僕は曲馬団で空中サーカスと云っているブランコからブランコへ飛び移るのが最も好きだが、松下サーカスは目星《めぼ》しい芸人が召集でも受けているのか、座頭の他には大人がなく、非常に下手で、半分ぐらい飛び移りそこねて墜落してしまう。このあとでシバタサーカスというのを見たが、この方はピエロの他は一人も墜落しなかった。一見したところ真ん中のブランコが一番大切のようだけれども、実際は両側のブランコに最も熟練した指導者が
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