うに、
「墨田川が好きで忘れられないなら、私が結婚させてあげる。相当のお金もつけてあげるよ」
「そんなことを、なぜいうの」
「好きじゃないのか?」
「好きじゃない。もう、きらい」
「もう嫌いというのが、わからないな」
「ほんとです。もう苦しめないで。私は浮気なんか、全然たのしくないのです」
「だがな、私のような年寄が。私なら、君のようにいうことができる。しかし君のような若い娘がそんなふうにいうことを私は信じてはいけないと思うのだよ。私は君が本当に好きだから、私は君の幸福をいのらずにいられない。私のようなものに束縛される君が可哀そうになるのだよ」
「あなたの仰有《おっしゃ》ることの方が私にはわからないわ。好きだから、ほかの人と結婚しろなんて、嘘でしょう。ほんとは私がうるさくなったのでしょう」
「そうじゃない。いつか君が病気になったことがあった。君は気がつかなかったが、君は眠ると寝汗をかく、そのうちに、目のふちに薄い隈がかかってきたが、ねむるとハッキリするけれども目をひらくと分らなくなるので、君は気がつかなかったんだな。いくらか目のふちがむくんでもいた。その寝顔を眺めながら、私はそのとき心の中でもう肺病と即断したものだから、君が病み衰えて痩せ細って息をひきとる姿を思い描いて、それを見るぐらいなら私が先に死にたいと考え耽っていたものだった。私自身はもう私の死をさのみ怖れてはいない。それはもう身近かに迫っていることでもあるから、私は死をひとつの散歩と思うぐらい、かなり親しい友達にすらなっているのだ。しかし、君は違う。私のような年配になると、人間世界を若さの世界、年寄の世界、二つにハッキリ区別する年齢的な思想が生れる。私自身若かったころは殆どもう若々しいところがなくて孤独癖、ときには厭人癖、まことにひねこびた生き方をしており、私に限らずなべて若者の世界も心中概ね暗澹たるもののように察しているが、私はしかしある年齢の本能によって限りなく若さをなつかしむ。慈しむ。若さは幸福でなければならないと思う。若者は死んではならぬ。ただ若さというものに対してすでにそのような本能をもつ私が、私の最愛の若い娘に対して、どのような祈りをもっているか、その人の幸福のために私自身の幸福をきり放して考えることが微塵も不自然でないか……」
 久須美は私のために妻も娘も息子もすてたようなものだった。なぜなら彼は、もはや自宅ではなしに私たちの海岸の旅館へ泊りそこから東京へ通っているのだから。人々はそのような私たちをどんな風にいうだろう? 私が久須美をだましたというだろうか。恋に盲《めし》いた年寄のあさましい執念狂気を思い描くことだろう。
 私はしかしそんなことはなんとも思っていない。息子や娘にとって、親なんか、なんでもないではないか。そして親が恋をしたって、それはやむを得ぬこと、なんでもないことだと私は思う。久須美もそんなことは気にしていなかった。私は知っている。彼は恋に盲いる先に孤独に盲いている。だから恋に盲いることなど、できやしない。彼は年老い涙腺までネジがゆるんで、よく涙をこぼす。笑っても涙をこぼす。しかし彼がある感動によって涙をこぼすとき、彼は私のためでなしに、人間の定めのために涙をこぼす。彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。
 私はだから知っている。彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ。彼はもし私よりも可愛いい愛人ができれば、私を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、人を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、彼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、彼は私の幸福のために、私を人と結婚させ、自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々人間はそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。
 しかし別にも一つの理由があるはずであった。彼ほど孤独で冷めたく我人《われひと》ともに突放している人間でも、私に逃げられることが不安なのだ。そして私が他日私の意志で逃げることを怖れるあまり、それぐらいなら自分の意志で私を逃がした方が満足していられると考える。鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった。そしてそんなことができるのも、彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。
 田代さんはこの旅館へきてノブ子さんと襖を距てて生活して、いまだに目的を達することができずにいた。田代さんは三日目ぐらいに自宅へ泊る習慣で、その翌日は、きのうは私の奥さんを可愛がってやってきました
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