した――」
「なるほど。そこで娘に惚れたのか。いやな惚れ方をする奴だな」
「先廻りをしてはこまる。聞き覚えのない声にハッと気付いて振向いたが、振向くまでもなくハッと我に帰つた瞬間には、日頃頭の訓練が行き届いてゐるせゐか、さては何か間違ひをやらかしたなといふことがチャンと分つてゐたよ。然しどういふ種類の間違ひをやらかしたかといふことになると、暫く娘の顔を眺めてゐたり、家の具合を観察したり、前後の事情を思ひ出したりしないうちは見当がつかなかつたね。そのうちに事の次第が漸次呑みこめてくると、流石に慌てるやうな無残な振舞ひはしない。騎士道の礼をつくして物静かに事の次第を説明すると風の如くに退出したが、さて我が家へ帰つておもむろに気がつくと、重大な忘れ物をしたことが分つた」
「重大だな。狙ひの一言を言ひ落したといふ奴だらう。名刺でも忘れてくるとよかつたな」
「人聞きの悪いことを言はないでくれ。役所でやりかけの仕事を入れた鞄を忘れてきたのだ」
「そいつは有望な忘れ物だ。それから――」
「取つて来ようと一旦街へでたが、てれくさくて気が進まない。ぶら/\してゐるうちに真夜中近くなつた。今更訪れるわけに
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