もいかないし、翌朝だしぬけにおびやかすのも気がひけるから、あれかれと考へたあげく、最も公明正大な方法をもつて堂々と乗りこむことにきめたよ。何月何日何時に鞄を受取りに参上するといふ外交文書に匹敵する正義勇気仁儀をつくした明文をしたためて、翌朝出勤の途次投函したのだ」
「うむ。そこまでは兵法にかなつてをる」
「さて約束の当日がきて、役所の帰りにそこへ寄る予定になつてゐたので、まづ勇気をつけるためかねて行きつけのおでん屋へ立ち寄つた。と、穏やかならぬ発見をしたが、なんだと思ふ?」
「よくある奴だ。てつきり不良少女だよ。娘が男と酒でも呑んでゐたのだらう」
「さうぢやない。鞄がその店にあつたんだ。考へてみると、例の一件の起つた日も、そこで一杯かたむけてゐたのだ。正式の外交文書を発送したあとだから、俺も見るからに歎いたよ。然し打ち悄《しお》れてもゐられないから気をとり直して酒を呑むと忽ち満身に力が沸いてきた。早速家へ帰ると始終の仔細をしたためた公明正大な文書を書き上げたのだ。いつ会はないとも限らない近所のことだ、まさかにほつたらかしておくわけにも行かないぢやないか」
「明らかに悪手《あくしゅ》だな。兵書の説かざるところだよ。婆羅門《バラモン》の秘巻にも(手紙は一度二度目は殿御がお直々)といふ明文が見えてをる」
「すると昨日返事がきたよ。言ひ忘れたがその家は女名前の主人《あるじ》なんだね。ところが手紙は男の手で、書いてあることが癪にさわるね。その内容をかいつまんで言ふと、娘に惚れるのはそちらの心の勝手だが、あんまり遠まはしに奇妙な策略をめぐらしてくれるなといふのだ。そもそもの始まりから他人の家へ無断でのこ/\這入りこんでくるなんて、策の斬新奇抜なところは大いに買ふが、安寧秩序をみだし良良なる風俗を害《そこな》ふ底《てい》の人騒がせは許しがたい悪徳であるなぞと途方もないことが書いてあつたよ。文章の様子から見て若い書生の筆らしいが、女名前の主人《あるじ》といひ、その家はてつきり素人下宿と思はれるのだ。してみると愈々てれくさい話になるわけで、なんとかして敵の蒙を啓き身の潔白を立てる方策を講じないことには、うかうかあの界隈を散歩もできない窮地にたちいたつた次第だが、そこで俺は手紙を書いた」
「またか!」
「万事偶然の働いた悪戯で、何等策略もなく第一お前の家のチンピラ娘に惚れるやうな浅慮は
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