……」
いや驚いたのは悪魔の奴で。――むらむらと薄気味悪い不安にかられ二歩三歩退きますと、「そこでバル氏はハン・スカ夫人と……アナタ、ハン・スカ夫人を御存知ないですか? 御存じない! 困るですね、それではですねアナタ……」情熱を傾けて語りながら衆人は悪魔の奴が退くだけ夢中につめよせてくるのです。悪魔の奴も辟易しました。万事休す、こはかなはじといふので印を結んでドカッとばかり地下へ潜れば。どつこい問屋で卸さない。「さうですよ、バル・ザック氏も金鉱を探しにでかけたですよ、さういふわけで――」
旅人も夢中の態で地下へのこ/\這入つてくるではありませんか! 勝負あつた、と云ふべきですね。もはや詮《せん》術《すべ》なしと観念の眼を閉ぢた悪魔の奴は永遠の如き饒舌の虜となり、厭世感を深めたといふ話があります。
若園君
[#ここから2字下げ]
バルザックは五十年生きぬ
天帝清太に百年の生を与ふれば
清太は百年バルザックを語るべし
[#ここで字下げ終わり]
若園君! これは君にあてつけたエピグラムではありません。私の人生は矛盾撞着に富み、それ自身エピグラム的です。従而《したがって》エピグラム的な滑稽は私にとつて笑ひでなく寧ろ悲しさを誘ひます。五十年のバルザックを百年に語るであらう清大の荘厳な悲劇喜劇に、野天の道化芝居を見るあの観衆の気易さで、暫く他意のない拍手を送らしてもらひませう。貴婦人の歓心を買ふために道化役者のやうな多彩な服を拵へたり、さうして、惚れた沢山の女には振られ通したバルザックも充分にエピグラム的な野人でした。のみならず、君の「バルザックの生涯」に於て、君が最大の愛情をこめて語るところの多くのものは、全てバルザックのエピグラム的傾向に就てではありませんか!
さて、君のエピグラム的労作の第一歩がきられた。全て人間のエピグラム的弱点にこざかしい皮肉の武器をもつて対立するものがかのメフィストフェレスであるなら、さうしてメフィストフェレスを圧倒するものが一にかかつてひたむき[#「ひたむき」に傍点]な誠意と情熱とでありますならば、バルザックと同じやうに生ける情熱の印刷機械であるところの君はたとひ天性世に稀な慌て者であるとは云へ(失礼!)竟《つい》にバルザックを語りきるといふ君の前人未踏の念願を達成することは至難の業でありますまい。乞御自愛。
底本:「坂口安吾全
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