ら想をねった。
 終戦前、彼が渓流の岩にかくれて、ひそかに釣をたのしんでいたころ、いつも水鳥がさわいでいた。小鳥の多い渓流であった。
 酒を水鳥ともいうのである。これは洒落だ。酒という字を二つにわるとサンズイの水に鳥(酉)となる。金時のつくるドブロクはヘタクソであった。それでも酒の一種になればいい方で、甘酒にしかならないことが多い。金時にはマゴコロがあったが、向上心がなかったので、ドブロクの製法が上達する見込みはなかった。亮作は甘酒ができると、ガッカリしたが、自分で製法を覚えてきて、うまいドブロクを造ろうという考えにならなかった。毎日うまいドブロクをのむことも愉快であるかも知れないが、金時のヘタクソなドブロクや甘酒をのむ方が、満足であった。今度の瓶は何ができるかいな、と心待ちにする方が、いつもうまいドブロクをのむ単調さよりも好もしいようにも思う。金時は何をやってもゾンザイだったが、ゾンザイなところに生一本の人間味がにじみでている。亮作には人のつくったうまいドブロクよりも、金時のゾンザイにつくった出来そこないのドブロクの方が珍重されるのである。
「ウム。水鳥亭。これがいい」
 山の端に半月がかかっていた。
「水鳥亭山月。ウム。これだ」
 そこで、竹をきり、ナイフで文字をほりこんで、表札をつくった。

          ★

 伊東周辺の山々には戦争中敵の上陸にそなえて掘られた無数の穴があった。それは防空壕とちがい、陸戦用のものであるから、部隊とともに、戦車もトラックもひそむことができるほどの広い穴である。
 その穴の市街地に最も近い一ツが乞食の巣になった。伊東では畑の中に温泉のわいているところもあるし、旅館も、漁師街も、乞食の食用に堪えるものをフンダンに捨てているから、ここは乞食と野良犬の天国であった。上野の地下道の住人でこれを聞き伝えた一部隊の移住をはじめとして、やがて六十世帯ぐらいがここに住みついてしまったのである。
 その一人に、もと中等学校(今の高等学校に当るわけだが)の教師だったという六十ぐらいのジイサンがいた。いったいに、ここの乞食は栄養に事欠かないのか血色がよくて肉づきもよく、また気の向くままに田園の露天温泉に浴することもできるせいか、身ギレイで、戦争中の焼けだされた人々よりもよほどキチンとした風をしていた。彼らが乞食であることを見分けうるのは、バケツやハンゴーやナベや裁縫の道具など、日用品一式を背負って歩いているためで、何も知らない旅行者が彼らを登山家に見立ててもフシギでないほどハイカラな住人もいるのである。
 もと中学教師のジイサンは皆にオヤジとよばれていたが、現役の中学教師に見立てることができる程度に精気があって、また威厳があったのである。その威厳は主として彼の鼻ヒゲと、冥想的な眼光によるのであるが、充分の栄養によって保たれているに相違ない皮膚のツヤツヤした精気がなければ、威厳の半ばも失われてしまうかも知れない。
 彼は孤独と逍遥を愛している様子であった。日用品一式を肩にかけて、職業上の目的とはなんの関係もないらしい静かな落ちついた足どりで街々を歩いているが、たまたま路上に働く人夫を一見れば、
「道路拡張。道路拡張」
 と、呟くのである。
 また、路傍にわく温泉を見れば、
「温泉湧出。温泉湧出」
 と呟くのである。
 その彼が、たまたま水鳥亭の前を通りかかった。彼がここを通るのはこれがはじめてであったが、彼の落ちついた逍遥も全然職業に無関係というわけではないらしく、田園の中にポツンと孤立した水鳥亭前の小道なぞは今まで歩く機会がなかったのであろう。
 水鳥亭の門前で、彼の落ちついた足どりがふと止まった。かつて物に動じたことのない哲人の足の律動を止めたものは何であったか? それは門の表札であった。
「水鳥亭山月。水鳥亭山月」
 二度朗読をくり返して歩きだした。そして、歩きながら、また呟いた。
「水鳥亭山月。フム。浪曲師の別荘か」
 また呟いた。
「浪曲師別荘。浪曲師別荘」
 塀ぎわで畑の世話をしてた亮作は、ひそかにこれを見、これを聞いていたのである。そして息づまるほどの怖れとも驚きともつかぬものに襲われたのであった。
 終戦から、もう数年すぎていた。品物もいろいろと出まわるようになっていた。豚の食物が人間に配給されて、それすらも一ヵ月余も欠配するような時世はどうやら忘れられていた。自分の畑の物をこよなき美味として珍重した時世もすぎていた。金をだせば肉もある、砂糖もある、外国のチーズもある、スコッチウイスキーすらも買うことができる。数年前には一匹のイワシすらも仰ぎ見る貴重品であったのに、伊東の漁師街ではアジやサバの干物なら野良犬すらも見向きもしなくなっていたし、温泉街では一箸つけたばかりの伊勢エビ料理がハキダメへ
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