理にかなった皮肉が、社長からわが身へと移ると、亮作は抵抗を失ってしもうのである。彼の息の根は怒りに止まる。逆上するが、口をつぐんで、うなだれてしもうのである。
亮作と野口は、東京近郊の農村で、小学校の教員をしていたことがあった。野口は教員にあきたらず、事業に手をだして落魄し、チャルメラを吹く中華ソバ屋をやったり、実入りがあるというので、葬儀屋の番頭をやったり、病気上りの馬を安く買って運送屋をやり、馬がコロリと死んだりした。死ぬかも知れないという不安を賭けての仕事だから、諦めはついたが、この馬は死の直前に発狂して、クワッと血走った目をひらいて瀕死の藁床から起き上ると、天へ跳び上るような恰好をした。つまり後肢で立って、前肢を人間の幽霊のように胸に曲げて、クビを蛇がのびるように天へねじあげたのである。そして綱を切ってしまった。馬小屋をとびだし、真一文字に五六町ほど道を走って、バッタリ倒れて、こときれたのである。医者がみたわけではないが、野口は馬の脳膜炎だと人に話した。
その後、小さな町工場をやって、今や首くくりというドタンバに、戦争がはじまった。にわかにトントン拍子となり、成金になってしまったのである。
野口はウダツのあがらぬ亮作を拾いあげて会計をまかせた。グズではあるが、悪事をするほどの能もないというところに目をつけてのことだ。サラリーは時の公定価格で、教員よりは良かっただけである。
野口は親切であったが、キンチャクの紐をゆるめない男であった。そして彼が使用人たちに敬語で話しかけるのはケチンボーをおぎのうためだと言われても仕方がない程度にケチンボーであった。彼は亮作に産報のビールの券や、食券などを与えたが、飲食するには亮作が金を支払わねばならない性質のものであった。人々は(亮作も)それを野口のケチンボーのせいにしたが、そうしないよりは親切であったに相違ない。
克子の言葉が正しいことを亮作は知っていたのである。野口は日曜ごとに別荘の畑のものやイワシなどを持参してくれて、なんでもないことのように置いていったが、会社での午《ひる》休みのひとときなどに、伊東ですら、一匹のイワシを手に入れることが、すでにどれほど困難であるか、さりげなく言うのであった。
一度や二度は我慢ができた。しかし、黙っていれば、おそらく毎日くりかえすだろう。
「エンジンのついた船はですね。それが焼玉エンジンですよ。みんな輸送船に徴用されています。若い漁師は戦争に持ってかれ、年寄まで船と一しょに徴用ですよ。それで千人食べられるだけイワシがとれたらフシギですよ」
そこで、とうとう亮作は考え深い人のように顔をあげて言うのであった。
「先日、あちらから来た人にききましたが、網をやってますな。たしか、大謀網《だいぼうあみ》もやってるそうです」
野口はそれが亮作の挑戦であることを見抜くが、微笑を失いはしない。
「あちらッて、どこからの人ですか」
「え、沼津です。遠縁の者が、あそこの工場にいて、時々本社へ上京のたび、私のウチへ寄るのですが」
亮作はおどおどしている。亀の子のように怯えた顔である。今にも甲羅にひッこめそうだが、頑強に言葉をつづけるのである。
「大謀網は、うまくいく時は、ブリが四五万尾はいる。海の魚は無尽蔵ですな」
「沼津の大謀網は初耳ですな。沼津は漁場ではありませんよ」
「いえ、沼津ではないのです。あのへんにちかい漁場での話です」
亮作は泣きそうな断末魔の顔だが、必死に口をうごかす。哀れであるが、シブトく、にくたらしくもある。
野口の顔色が変る。息づかいが、はげしくなる。
「私はこの目で見ていますよ。あなたは耳にきいたことで、私が目で見たことを否定しようとなさるのですか」
亮作は沈黙する。
「太平洋の沿岸は敵の潜水艦でとりかこまれていますよ。真鶴《まなづる》では、大謀網に敵潜が突ッかけてしまいましたよ。ホラ貝をふくやら、大騒ぎしたそうですが、網をかぶったまま、逃げられちゃいましてね。ですからどこの大謀網もかけッ放しで、危くって、沖へでる舟はありませんよ」
野口が顔色を変え息ぜわしくなれば満足だと、亮作の泣き顔が語っているように見える。しかし野口も、亮作が沈黙すれば、まア、満足であった。そして、社長の落ちつきを取り戻すに時間はかからなかった。
野口は亮作にお茶をついでやって、
「どうです。一度、伊東へ遊びにいらっしゃい。今度の日曜にお伴しましょう。とにかく、別天地ですよ。ウチの畑は二町歩あります。鶏も一週間ぶんの卵を生んで、私たちを待っていますよ」
「ええ。ぜひ一度、お伴させていただきます」
亮作も忠実な社員にもどって、ニッコリ笑う。そして、社長の善良な思いやりと、親切を、あたたかく感じとるのである。
月曜からの六日間、野口のケチンボーに
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