水鳥亭
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)午《ひる》休み

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(例)B29[#「29」は縦中横]
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     一匹のイワシ

 日曜の夜になると、梅村亮作の女房信子はさッさとフトンをかぶって、ねてしもう。娘の克子もそれにならって、フトンをひっかぶって、ねるのであった。
 九時半か十時ごろ、
「梅村さん。起きてますか」
 裏口から、こう声がかかる。
 火のない火鉢にかがみこんで、タバコの屑をさがしだしてキセルにつめて吸っていた亮作は、その声に活気づいて立ち上る。
 いそいそと裏戸をあけて、
「ヤア、おかえりですか。さア、どうぞ、おあがり下さい」
 声もうわずり、ふるえをおびている。
 野口は亮作の喜ぶさまを見るだけで満足らしく、インギンな物腰の中に社長らしい落付きがこもってくる。彼は包みをといて、
「ハイ。タマゴ。それから、今朝はイワシが大漁でしてね」
 タマゴ三個と十匹足らずのイワシの紙包みをとりだしてくれる。
「これはウチの畑の大根とニンジン」
 それらの品々は亮作の目には宝石に見まごうほどの品々であった。彼は茫然とうけとっているのである。その目には、涙が流れさえするのであった。
「もう、みなさんは、おやすみですか」
「いえ、かまいませんよ。どうぞ、あがって下さい」
「いま伊東からの帰り路ですよ。まだウチへ行ってないのです。おやすみ」
 野口は笑顔を残して、静かに立去る。
 日曜の夜の習慣であった。信子と克子は、これが見たくないので、早々にフトンをひッかぶって、ねてしもうのである。
 そのくせ信子も克子も野口のくれた物を存分に食う。さかんにくれた人と貰った人の悪口をわめきながら食うのである。
「そんなに厭な人から貰った物なら、お前たち、食うな」
 亮作は怒りにぶるぶるふるえるが、二人の女はとりあわない。そして益々悪口を叫びつづける。
「なんですね。あの男は。この子の生れたころは、あなたの同僚ですよ。ひところは失敗つづきで、乞食のような様子をして、ウチへ借金に来たことだってありましたよ。それになんですか。いくらか出世したと思って、たかが戦争成金のくせに、威張りかえって」
「威張っておらんじゃないか」
「威張ってますよ。昔はキミボク、イケぞんざいに話し合っていたくせに、いくらか出世したかと思って、あなた、私。おお、イヤだ。以前なら、いま伊東の帰りだよ、といったところを、いま伊東の別荘からの帰り路なんですよ。なんてイヤらしい」
「バカな。へりくだっているんじゃないか」
「ウソですよ。へりくだると見せて威張るのよ。悪質の成金趣味よ。ねえ、克子」
「そうよ。無学文盲の悪趣味よ。裏長屋の貴族趣味ね」
「バカな。お前らのハラワタが汚いから、汚い見方しか出来ないのだ。だいいち、野口君は、伊東の別荘などと言いはせん。いつも、ただ、伊東の、という。つとめて成金らしい口吻をさけているのが分らんか」
「つまんない。裏長屋のザアマス趣味をひッくりかえしただけよ」
 女子大生の克子は投げすてるように言う。
「伊東の別荘と言いたいのを、伊東で切らなきゃならないからイヤらしいのよ。使用人に届けさしゃいいものを、今、帰り路ですなんて、恩にもきせたいし、伊東の別荘も言いたいからよ。わざと、へりくだることないじゃないの。いつもタマゴは三ツなのね。不自然ね。ムリして数を合せてさ。一から十までムリしてるのよ」
「生意気な。なにを言うか。このイワシをみろ。七匹じゃないか。ムリして数を合せてはおらん。お前らのゲスのカングリ、汚らしいぞ」
 克子は皿の上の焼いたイワシに白い眼をむけて、
「七匹なんて、変ね」
 と、薄笑いをうかべる。イワシを突きこわして、ゆっくり食べながら、
「九匹じゃ、惜しいのね。六匹に一匹、足したツモリかしら。九匹から二匹、ひいたのかしら」
 亮作はつかみかかりたいほど怒りの衝動にかられて、
「私の問いかけたことにハッキリ答えろ。ムリして数を合せているか。これ!」
「それは、たぶん」
 克子の顔から血の気がひいて、白い薄笑いをはりつけたようになるのであった。
「忠誠と柔順に対する特別の恩賞ね。一匹のイワシのために老いの目に涙をうかべて喜ぶ人がいたのね。昔の同僚が町工場の小成金に出世して、拾いあげてくれたの。実直でグズなところを見こまれて、会計をあずかる重要なポストを与えられたのよ。けれども、平社員で、サラリーは安いのよ。その代り、社長は、あなた、あります、とテイネイな敬語で話しかけて、あたたかく遇してくれるのよ。そして六匹のほかに、余分に一匹のイワシも与えるの。すると平社員は老いの目に涙をたたえて、日曜の夜の社長の別荘帰りをお待ちするのよ」
 女子大学生の
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