つくのであった。
「なにを言うんでしょうね。あなたは。よくも、まア、羞しげもなく、そんなことを。私はB29[#「29」は縦中横]に依頼して、この本だけは焼き払ってもらいたいと思っていますよ。考えてもごらんなさいよ。この本のおかげで、私は一生を棒にふったようなものよ。どんなに泣かされたか知れません。あなたは、よくも、まア、ガラクタ本を焼き払う気にならないものですね。人を散々泣かせて、三文の得にもならないどころか、笑いものになったばかしじゃありませんか。この本の一冊ごとに、あなたが低脳だという刻印が捺してあるのですよ。低脳の証拠を毎日眺めて平気でいられるのがフシギですよ。どこまで低脳だか、分りゃしない。私や克子がともかく生きていられたのは、大伯母さまのおかげです。さもなければ、本のために母子心中していますとも」
信子の偽らぬ気持であった。克子にはきき古りた愚痴である。これをきかされるために生れてきたかのように、ウンザリさせられてもいる。信子の語気は激しかったが、克子の耳には陳腐なクリゴトで、なんの興もそそられなかった。
「お父さんは、どこへ疎開するの」
克子がきいた。
皮肉な思いは含まれていない。同じところへ父が疎開するはずのないこと、そして、それが当然であることを信じているだけの話であった。父の行先に、ちょッと興味があるだけである。
「疎開する所があるものですか」
信子の攻撃がつづく。
亮作はちょッと首をすくめて、困惑した薄笑いをうかべた。
「どこへ行く必要もないがね。そろそろ皇軍の総反撃のはじまるころだ。今ごろ、はじまっているかも知れん。敵さんの物力で半永久的な飛行場をつくらせてから、とりかえす。すこし手がかかるが、物量を節約するには、こんなこともせにゃならん。作戦は計画通りいっとる」
日本の反撃は亮作の反撃であった。彼の顔色は、ちょッと得意にかがやく。これが彼の為しうる唯一の執拗な反撃であり、仕返しなのである。
克子はそんな子供じみた仕返しに興味がなかった。
「じゃア、疎開しないの?」
自分の興味だけ追求する。
「疎開するところがないからなのよ。負け惜しみッてことが分らないのかね」
「いいじゃないの。きいてみたって」
「きくだけ、ヤボよ」
「でも、ききたいわね」
「きいて、どうするのね」
「この本の保管托されてさ。なんの役にも立たなかったガラクタだなんて、その人知らないわね。おもしろいじゃないの」
亮作は亀の甲から首をだす。
「人間には夢が必要だ。夢を持たなきゃ生きられない。三文の値打もないと分っていても、夢に托して生きる。お前さん方には、わからない。戦争が終って、私と本が又一しょに暮すようになる。時世が変って、私のような老書生も試験にパスして、新時代に返り咲くかも知れない。バカらしくとも、夢に托して生きて行くのがカンジンさ」
「なんだ、つまんない」
克子は即座にうちけした。
「戦争が終ってから試験にパスしたって、もう停年の年齢じゃないのよ。どこにも夢なんて、ありゃしない」
「克子は夢がないのかね」
亮作の言葉は穏やかであったが、例の弱々しく執念深い抵抗が、すくんだと見せて小さなカマクビをもたげているのである。
克子は軽く舌打して、その小さなカマクビを払い落した。
「軽蔑されるの、当然だわね。私たちの年齢に夢がない人あって? お父さんの年齢で、試験にパスする夢なんて、よくよくだわね。再来年は、私でも中等教員の免状もらえるのにね。中等教員になりたいなんて、思いもしないけどね」
克子の述懐に底意はなかったようだが、亮作のカマクビはうち砕かれて、抵抗も言葉も失ってしまった。
どうしても本だけは疎開しようと亮作は思った。それだけが二人の女に抵抗する手段のように思われた。本に対するやみがたい愛惜もたしかであった。
ひねもす本のことだけが気にかかる。
「社長におねがいがあるのですが」
と、亮作は野口にたのんだ。
「実は、疎開のことですが」
「疎開なさるんですか。結構ですね。早いが勝ですよ。どちらへ?」
「いえ、それがね」
「奥さんの伯母さんの所でしょう。大変なお金持だそうですね。羨しいですよ。こッちへも少し分けて下さい」
「ええ。家内と娘はそこへ疎開させますが、私はちょッと遠いものですから」
亮作は家庭の不和を隠していた。誰にも知られたくなかったのである。
「遠いッたって、なんですか。持久戦ですよ。物資のあるところに限りますぜ。こんな小ッポケな工場を持ったおかげで、私なんか身動きができないから哀れですよ。田舎へひッこんで、新鮮なものをタラフク食べて、忙しい思いを忘れたいですよ」
「実はお宅の伊東の別荘の片隅をかしていただけたらと、あつかましいお願いなんですが」
思いがけない申出に、野口の微笑が一時に消
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