て云えば、私の年よりも多いわけだわね」
「あたりまえよ」
「フウン。グズだわね」
 母の無言は同意をあらわしているのである。
 戦時の夜は静かであった。二人の会話はグズの耳に筒ぬけにきこえた。
 亮作は検定試験をうけて、中等教員になろうと思っていた。小学校の教員になると、ただちに受験準備をはじめたのである。彼の乏しい給料は概ねそのために費された。歴史と地理を志し、後に国漢も受けたが、何度やってもダメであった。
 信子も亮作が小学教師で終らぬことを信じた上で結婚した。中等教員はおろか、その上の試験にもパスして、教授、学者になるかも知れないと思っていた。仲人の口もあったが、書籍の山にうずもれた彼の書斎の風姿に接したときに、なんとなくそう信じたのである。
 三十前後までは、彼への世間の信用も大きかった。学識深遠、小学教師などで終るべき凡庸の徒ではない、というのである。人々は彼を仰ぎ見た。
 四十前後には、完全にその逆であった。同じ人間が、同じ土地で、目立って変った生活はひとつもしていないのに、こんなに世評がひッくりかえるということは、信じられないようであった。しかし世間は彼を遇するに、ひところはそのように甘く、そして後には冷めたかった。
 彼に憐れみを寄せる人もなかった。軽蔑と嘲罵が全部であった。
 学務委員はそれが父兄全体の声でもあると云って、彼が全然見込みのない受験のために、当面の教育をないがしろにしていることを校長につめよるのである。
 校長は彼のために弁護しなかった。
「まったく、あの人物には困りましたよ。よそへ廻したくても、どこの校長も引きとってくれません。まだしも代用教員を使う方がマシだと言いましてね」
「そんなことを云って、大事な子供をまかせておく我々はどうなるのかね」
「今になんとかしますが、本人にも言いきかせますから、辛抱して下さい」
 そのたびに彼は校長室によびつけられ、学務委員や有力者の家を謝罪して廻らねばならなかった。
 そして彼の月給は、いつまでたっても、ほとんど初任給に近かった。彼は十の余も若い人たちに追いぬかれ、新学期のたびに、彼の級をひきついだ若い教師に、彼の一年間の教育がなっていないことを罵倒されるのであった。
 信子は、大伯母の援助がなければあなたを道づれに自殺したろうと克子に言いきかせるのであった。
 信子の母の姉、克子には大伯母に当る人が富裕な人と結婚し、わがままな生涯を送っていたが、ツレアイも死に、アトトリもなかった。このわがままな年寄が、克子を養女の筆頭に選んだのである。
 信子はひとり児を養女にだすことに、反対の理由を知らなかった。梅村亮作の家名の如きは、絶えることが世のため人のためである。その家名には恥と貧窮と、悲しみと嘆きがつきまとっているだけだ。咒《のろ》いによって充たされているだけである。梅村亮作の恥辱まみれの一生は、彼ひとりでしめくくるのが当然であった。
 大伯母からは克子の教育費が送られ、克子は女子大学へ進んだ。亮作が世間からうけた冷遇も、大伯母のそれに比べれば、あまいものであった。大伯母の彼に対する感情は憎悪であった。全人格を無視し、否定し、刺殺していた。
 克子は休暇のたびに、母と一しょに大伯母のもとで暮すようになったが、亮作は門前にたたずむことも許されていなかった。そして克子の休暇中は、彼は自炊して出勤しなければならなかったが、恥辱という苦痛がなければ、一人暮しの不自由も苦しいというものではなかった。
 克子の教育費は、亮作を含めた生計費に用いることを禁ぜられ、信子もその禁令を堅く守っていたが、戦争がはげしくなり克子への食糧が大伯母から届けられるようになると、そのもの自体の恩恵に浴することは稀れであっても、配給の食糧をかなり豊富にとることができて、亮作も間接の恩恵に浴することができた。
 母と娘は、夜毎に疎開の荷造りをしていた。荷物の送り先は、もちろん大伯母のもとであり、亮作の品物がその荷造りから一切はぶかれていたことは言うまでもなかった。
 彼女らの荷物を送りだしても、炊事道具やチャブダイは亮作に属していたので、三人の生活は不自由はなかった。
 二人は亮作に荷物の疎開をすすめなかった。彼女らの生活が不自由になるせいもあったが、亮作の品物などは一切煙と化したところで惜しくはなかったからである。
 二人の荷物が発送されると、空間のひろがりが目立った。それが目にしみると、亮作も疎開ということを考えた。せめて本だけは、と考える。それだけが彼の足跡だった。本が焼かれることを思うと、自分が焼かれるような苦痛を覚える。
 わずかな月給から買いだめた蔵書が二十何年のうちに二千冊余になっていた。
「なア、信子や。この本だけでも大伯母さんに預ってもらえないかな」
 信子はあきれて、溜息を
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