イライラと不快な思いをさせられるにしても、日曜の一日はその親切な訪れをまつ喜びで一ぱいになる。そして、夜十時、静かに裏戸に近づいてくる跫音《あしおと》に、最高潮に達する。
あるいは裏戸に跫音をきく瞬間までは、社長のケチンボー、安い月給を敬語でおぎのうことなどを罵る思いがくすぶっていたかも知れない。しかし、訪う人の声によって彼であることを確めると、もうダメだ。亮作は感動だけのカタマリであった。胸の鼓動は羽ばたいて彼を裏戸へ走らせ、老いの目に涙をうかべさせてしもうのである。
亮作はその自分をあさましいとは思わなかった。人の善意を信じることは大切だと思うのである。しかし、信子や克子を相手にして、彼はそう考えているのであって、彼自身が直接社長に対しては、一週間の六日間はそのケチンボーや敬語を軽蔑しているのであった。だから一匹のイワシに泣く男をあさましいと思うのは、亮作が誰よりも激しかったかも知れない。
女房や娘の汚くて意地悪い表現によって、一匹のイワシに泣く己れの姿をシテキされては、もうオシマイであった。彼は逆上しながら、口をつぐんで、うなだれてしもう。
しかし、やがて、カマクビをたてなおす。
そして、社長に遠まわしの皮肉をきりだすと同じようにオドオドと、しかし執拗にくいさがる。
「お前はそのイワシを食べてはいけない」
言葉は、できるだけ静かであった。ただ、抑えきれない亢奮が口から泡をふかせているだけである。
「それほど軽蔑し憎むものをなぜ食べるのだね。それはお前が軽蔑しているものよりも、もっと軽蔑すべきことだと思わないかね」
それに対して、克子はまずこう答える。
「ツバがとぶわね。食物に」
それからゆっくりと、ゴミをすてるように、火のない火鉢の中へイワシを投げすてる。
「これ待ちなさい!」
父は娘の腕をつかむ。もしくは、つかもうとする。そして叫ぶ。
「今さらゴミよりも軽蔑した手ツキでイワシを投げすててみせても、今まで食べていた意地汚さを打ち消す力にはならないのだよ。むしろ今までの意地汚さを自分で軽蔑したことになるのだ」
克子は顔の血の気をまったく失って立上る。お弁当をとりあげる。彼女はこれから徴用の仕事場へでかけるところだ。
克子は膝の上でお弁当をひらいて、オカズの一匹のイワシをつまみあげて、流しへ抛《ほう》りだす。一すじの涙がながれ、やがてかすかに
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