呟きつつ歩き去った。彼は塀ぎわに働いていた亮作を認めたようであったが、浪曲師その人なぞにはなんの興味もなかったらしい。彼の落ちついた足の律動を乱させたのは、主として「水鳥亭山月」という表札であったのである。亮作も、それに気がついた。
「水鳥亭山月……」
オヤジの姿が遠くに消え果ててから、亮作はふと呟いた。
オヤジの認めたのは水鳥亭山月の表札だけで、彼自身の存在ではなかったという事実がしみじみよみがえってきた。それが甚だ当然のような気がしたのである。
「この表札は、オレのではない」
水鳥亭山月の表札をおろそうと思った。けれども、門前へまわって表札を見ると、いたましくて、とても取り去ることができなかった。いくどか思い直したが、また、ためらって、どうしても外せなかった。
翌朝、表札を外す代りに、彼自身が鶏小屋の横手で首をくくって死んでいる姿が発見された。
底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「夜長姫と耳男」大日本雄弁会講談社
1953(昭和28)年12月発行
初出:「別冊文藝春秋 第一五巻」
1950(昭和25)年3月5日発行
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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