希望もなく生きる心境をつくることができたのです。それが私の全財産でした。あなたは私の全財産をうばい去ったのです。そして忘れていた悲しさを、いや、もっと大きな悲しさを私の胸に叩きこんだのです。まるで火の玉のように、私のからだの中を悲しさがころげまわり、走り狂っています。三月十日のあの怖しい空襲の火の舌が、私の背を焼き、追いつめてくるではありませんか。私はどうしたらいいのです。三月十日の空襲よりも、もっと怖しい艦砲射撃が耳の底に鳴っています。空という空に火の線が走って、山はゆれ、岩は砕け、大地はわれて、火をふきあげるではありませんか。私はすべてに見すてられました。もう歩く力もないのです。私はどうしたらいいのですか」
亮作の喉にクックックッとこみあげる音がして、にわかにヒッと泣きふしてしまった。
野口はなんとなく哀れに思い、三千円だと引越しのツケトドケにしかならないが、どうせ戦禍に消え失せるもの、捨てるよりは三千円で売った方がマシだろうと思った。
けれども一皮むいて考えると、同情してみたって始らない。戦争というこの冷酷な魔神の通路には、ただ運命があるだけで、誰だって自分の意志でそれを逃れることはできない。自分自身が一時間後にどんな運命になるか、誰も知ってやしない。人に同情するなどとは身の程をわきまえぬ愚行であろう。
「なに、ここだけが戦場になるわけじゃありませんよ。おそかれ、早かれ、日本中がそうなるのです。私は、高いとか安いとか選り好みできるあなたの境遇がうらやましいと思ってますよ」
「じゃア、死ぬる思いですが、思いきって、四千円だします。四千円で売って下さい」
「いえ、いけません。五千円。最低の値をつけたのです。私は商売をしているわけではありません。五千円という捨て値は、まったくの捨て値で、損得勘定の根拠があるわけではありません。ひとつの気分でヒョイときめた捨て値です。愛着のこもったものを捨て去るときの悲しさをいたわってくれるものは気分だけです。私は気分をこわすわけにいきません。商取引のように、値切られたり、まけたりするわけにいかないのです」
亮作は気違いじみた泣き顔をあげて野口を見つめた。ちょッとオドオドしてはいたが、いつもするような薄笑いの翳はなかった。
「五千円で買ったら、あなたは今日中に立退きますか。いえ、今日中に立退いて下さい」
「今日中はムリですよ。
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