」
「あれを貸していただけませんか」
「鶏小屋を!」
野口は興にかられて亮作を見つめた。
「小さい方の使っていない小屋のことでしょうね」
「むろん、そうですとも。使用中のものを、お願いできるとは思いませんから]
「あの小屋なら、一間の四尺五寸、つまり一坪に足りないのですよ。あれをどうしようと仰有《おっしゃ》るのです」
野口は益々興にかられて亮作を見つめた。そんな目で見つめられると、亮作はナメクジが溶けるように目をすぼめて泣き顔になるのであったが、弱々しい、しかし執拗な抵抗が、また、カマクビをもたげるのである。
「いえ、ナニ、ちょッと本を二千冊ほど疎開させたいのですよ。ほかに金目のものがないわけではありませんが、私は財産を疎開させようなんて、考えちゃおりません。戦争ですから、職域を死守する、私は東京を動きません。一兵卒のつもりです。身辺の家財もうごかしません。死なばもろとも、です。けれども、書籍は文化財ですからな。私のは、特殊な専門図書ですから、金には換算できないものがあるのです。まア、見る人によりけりですがね。焼け残れば、よろこんでくれる人もあるでしょう。そして後世、役立つこともあるでしょう。私のためじゃアないのですよ。碌々たる私の一生でしたが、一つぐらい、ほめられることもしておきたいと思いましてね。いまわの感傷にすぎませんがね」
それが野口のカンにさわった。彼はさりげなく微笑して、
「とんでもないことです。そんな国宝的な品物はお預りできません。保管の責任がもてません。私はズボラですから」
「いえ、責任をもっていただく必要はありません」
「ダメ。ダメ。あなたがそう仰有っても、戦火で焼くとか、紛失するとか、してごらんなさい。野口はくだらぬ私物を大事にして、人から托された国宝的な図書を焼いてしまった、と後世に悪名を残すのは私ですよ。それほど学術的価値のあるものでしたら、文部省とか、大学などに保管を托されることですな。そんな物騒な高級品は、私のような凡人の気楽な家庭へ、とても同居を許されません。意地が悪いようですが、堅くおことわり致しますよ」
亮作は無言であった。その悄然たる有様に野口は慈愛の眼差しをそそいだ。
「ねえ、梅村さん。あなたは間違ってやしませんか。命あってのモノダネですよ。あなたがどんな貴重な図書をお持ちか知れませんが、失礼ですが、小学教員のあなたが、
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