なんて、その人知らないわね。おもしろいじゃないの」
 亮作は亀の甲から首をだす。
「人間には夢が必要だ。夢を持たなきゃ生きられない。三文の値打もないと分っていても、夢に托して生きる。お前さん方には、わからない。戦争が終って、私と本が又一しょに暮すようになる。時世が変って、私のような老書生も試験にパスして、新時代に返り咲くかも知れない。バカらしくとも、夢に托して生きて行くのがカンジンさ」
「なんだ、つまんない」
 克子は即座にうちけした。
「戦争が終ってから試験にパスしたって、もう停年の年齢じゃないのよ。どこにも夢なんて、ありゃしない」
「克子は夢がないのかね」
 亮作の言葉は穏やかであったが、例の弱々しく執念深い抵抗が、すくんだと見せて小さなカマクビをもたげているのである。
 克子は軽く舌打して、その小さなカマクビを払い落した。
「軽蔑されるの、当然だわね。私たちの年齢に夢がない人あって? お父さんの年齢で、試験にパスする夢なんて、よくよくだわね。再来年は、私でも中等教員の免状もらえるのにね。中等教員になりたいなんて、思いもしないけどね」
 克子の述懐に底意はなかったようだが、亮作のカマクビはうち砕かれて、抵抗も言葉も失ってしまった。
 どうしても本だけは疎開しようと亮作は思った。それだけが二人の女に抵抗する手段のように思われた。本に対するやみがたい愛惜もたしかであった。
 ひねもす本のことだけが気にかかる。
「社長におねがいがあるのですが」
 と、亮作は野口にたのんだ。
「実は、疎開のことですが」
「疎開なさるんですか。結構ですね。早いが勝ですよ。どちらへ?」
「いえ、それがね」
「奥さんの伯母さんの所でしょう。大変なお金持だそうですね。羨しいですよ。こッちへも少し分けて下さい」
「ええ。家内と娘はそこへ疎開させますが、私はちょッと遠いものですから」
 亮作は家庭の不和を隠していた。誰にも知られたくなかったのである。
「遠いッたって、なんですか。持久戦ですよ。物資のあるところに限りますぜ。こんな小ッポケな工場を持ったおかげで、私なんか身動きができないから哀れですよ。田舎へひッこんで、新鮮なものをタラフク食べて、忙しい思いを忘れたいですよ」
「実はお宅の伊東の別荘の片隅をかしていただけたらと、あつかましいお願いなんですが」
 思いがけない申出に、野口の微笑が一時に消
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