人の発見しうる手掛りを残しておらぬからなのだが「蝶々殺人事件」の場合はそうではなくて、犯人が平凡な手掛りを残しているに拘らず、作者が強いてそれを伏せて、自分の都合のよいように黙殺しておるのである。これでは読者に犯人が当たるはずはあり得ない。
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第三の欠点はこれに関連しているが、つまり、探偵が犯人を推定する手掛りとして知っている全部のことは、解決編に至らぬ以前に、読者にも全部知らされておらねばならぬ、ということだ。
読者には知らせておかなかったことを手がゝりとして、探偵が犯人を推定するなら、この謎ときゲームはゲームとしてフェアじゃない。犯人は読者に当たらぬのが当然で、こういうアンフェアな作品は、作家の方が黒星、ゲームにはならない。
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横溝氏の「蝶々」の場合のみではなく、世界的な名作と称せられる作品でも、以上三つの欠点のどれもないというものはメッタにない。つまり大概、謎の成功のために人間性をゆがめたり、不当なムリをムリヤリ通しているもので多少のムリは仕方がない、というのは許さるべきではない。不当なムリがあれば、それは作者と作品の黒星なのである。
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私は探偵小説を謎ときゲームとして愛してきたもので、このような真夏の何もしたくないような時には、推理小説を読むこと、詰碁詰将棋をとくのが何より手ごろだ。そのあげくに、暑気払いのつもりで、私もこの夏、本格推理小説を書きはじめたが、これは趣味からのことで、私自身は探偵小説を謎ときゲームとして愛好しているだけの話、探偵小説は謎ときゲームでなければならぬなどゝ主張を持っているわけではない。
木々高太郎氏の探偵小説芸術論、これも探偵小説を愛するあまりのことで氏の愛情まことに深情け、あげくに惚れたアノ子を世の常ならざる夢幻の世界へ生かそうという、至情もっともであるが、いささか窮窟だ。探偵小説はこうでなければならぬなどと肩をはってはいけないもので、謎ときゲーム、芸術の香気、怪奇、ユーモア、なんでもよろしい、元々、探偵小説というものは、読者の方でも娯楽として読むに相違ないものなのだから、本来が、軽く、意気な心のあるものでなければならない。
ドストエフスキーの「罪と罰」を探偵小説と考えてはいけないので、元々文学は人間を描くものだから犯罪も描く。犯罪は探偵小説
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