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 角田喜久雄氏の「高木家の惨劇」では、吾郎という青年が自分でも何のためにアリバイをつくらねばならぬか知らないほどの漠然たる不安に、殺人犯人でもやらないような芝居がかったアリバイのつくり方、全然人間性というものを無視している。一方、吾郎にこうして三時のアリバイをつくらせる友子が、三時の銃声に吾郎の犯行と思ってピストルを隠す。この実際の犯罪を怖れたから吾郎にアリバイをつくらせておるのではないか。
 やっぱりそうか、よかった、とホッとはしても、吾郎の犯罪と思うはずはなく、この小説はピンからキリまで人間性をゆがめ放題にゆがめている。読者に犯人の当るはずはない。

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 第二の欠点は、超人的推理にかたよりすぎて、もっとも平凡なところから犯人が推定しうる手掛りを不当に黙殺していること。
 例えば犯人は東京の犯行と見せかけて大阪で犯行を行ったが、そのためには、砂のつまったトランクを大阪のアパートで受取らねばならず、コントラバスケースを盗みだしてアパートへ持ちこみ、また持ちださねばならず、以上の如くアパートを中心に大きな荷物を入れたり出したりしているのである。警察の刑事の捜査だったら、こういう最も平凡な点から手がゝりをつかみだすのが当然で、読者の方では無論そうあるべきものと思っているから、刑事がそれをかぎださぬ以上、そんな疑いがないからだ、と思う。
 アパートを中心にトランクの出入、コントラバスケースの出入、そんな疑わしい事実がなかったのだ、と考える。だから読者には大阪の犯行を推定する手掛りが見つからない。

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 だから解決編に至って、由利先生がアパートの砂袋を推理によって推定する。読者はその天才的推理に驚嘆するよりも、なんのことだい、それじゃアモッと平凡に刑事がかぎだしていそうなものじゃないか、もしまた、大きな荷物の出入を刑事にさとられる手掛りなしにやった犯人なら、砂袋をアパートにおくはずはない。アパートのオカミサンなどというものはアパート内の物品が右から左へ動くだけの変化にも鋭敏で、砂袋がふえていれば、すぐ話題になる性質のものなのである。
 こゝにもまた、作者は人間性をゆがめ、不当に人間性をオモチャにもてあそぶ欠点をもバクロしている。
 探偵小説が天才の超人的推理を必要とするのは、犯人がまた天才的で、凡
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