野謙が見るも無残に敗北し、大井広介が中敗、僕、完璧の勝利であつた。だから、十二月五日から六日へかけて、僕達は一睡もしてゐない。小田原へ行つたら魚を買つてきて下さい、と大井夫人に頼まれた。
 結局、小田原へ到着したのは十二月七日の夕刻であつた。
 ガランドウは国府津へ仕事に出掛けて、不在。折から彼の家で長男の元服祝ひ(なんのことだか分らないが、ガランドウがさういふ風に言つてゐたから、多分、元服祝ひなのであらう。長男は十七である)の終つた直後で、そのために近郷近在から掻き集めた酒、ビール、焼酒、インチキ・ウイスキーの類ひ無慮数十本の残骸累々とあり、手のつかない瓶もあつて、僕はそれを飲み、ガランドウが仕事から帰つて来たとき、僕は酩酊に及んでゐた。ガランドウも仕事の帰りに、国府津で飲んで、酔つ払つてゐた。子供達の夕餉《ゆうげ》のために、アカギ鯛を十枚ばかりブラさげ、国府津で見つけてきたけんどよ、小田原に魚がねえと言ふだから、話にならねえ、と言つた。
 アカギ鯛を見るに及んで、俄に大井夫人の依頼を思ひだし、生きた魚が手にはいらぬかと訊ねてみると、小田原では無理だが、国府津か二の宮なら金の脇差だといふ返事、ガランドウは翌日の仕事の予定を変更して、二の宮の医者の看板を塗ることゝなり、僕と同行して、魚を探してくれることにきめる。さうなると、ドテラをぶらさげて東海道を歩くわけには行かないので、ドテラの方は、又、この次といふことになつた。何のために小田原へ来たのだか、分らなくなつてしまつたけれども、かういふ本末顛倒は僕の歩く先々にしよつ中有ることで、仕方がない。
 翌日、七時すぎて、目を覚したがその気配に、ガランドウのおかみさんが上つてきて、オヤヂは朝早く箱根の環翠楼《かんすいろう》へ用足しに出掛けたけれども、昼までには戻つてくる。それから二の宮へ行くさうだから、と言ふがあんたの洋服着て、気取つて出掛けて行つたよ。へえ、さうかい。なんだか、戦争が始つたなんて言つてるけど、うちのラジオは昼は止つてしまふから。……
 東京の街の中では、このやうな不思議なことは有り得なかつた筈である。然し、昼間多くのラヂオが止つてしまふ小田原では、ガランドウの仕事場の奥の二階にゐると、何の物音もきこえなかつた。おかみさんの報告も淡々たるもので、僕はその数日のニュースから判断して、多分タイ国の国境で小競合《こぜりあい》があつたぐらゐの所だらうと独り合点をし、三時間余り有り合せの本を読んでゐた。いくらか冷たい風はあつたが、快晴である。西の窓に明神岳がくつきりと見える。ガランドウが環翠楼へ行くんだつたら一緒に行つて一風呂浴びて来るのであつたが、と考へた。環翠楼には知人もゐる。僕は生来の出不精だけれども、小田原の天気の良い日は、ふと山の方へ歩きたいやうな気持になる。このあたりは、多分、空気に靄が少いのであらう。非常に陰影がハッキリしてゐて、道が光り、影があざやかに黒いのである。
 ガランドウと行き違ふと悪いので、箱根の入浴は諦めたけれども、顔でも剃つて、旅らしい暗さを落さうと思つた。街へ出たのは正午に十分前。小田原では目貫《めぬき》の商店街であつたが、人通りは少なかつた。小田原の街は軒並みに国旗がひらめいてゐる。街角の電柱に新聞社の速報がはられ、明るい陽射しをいつぱいに受けて之も風にはた/\と鳴り、米英に宣戦す――あたりには人影もなく、読む者は僕のみであつた。
 僕はラヂオのある床屋を探した。やがて、ニュースが有る筈である。客は僕ひとり。頬ひげをあたつてゐると、大詔《たいしょう》の奉読、つゞいて、東条首相の謹話があつた。涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一兵たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。
 ガランドウの店先へ戻ると、三十間ばかり向ふの大道に菓子の空箱を据ゑ、自分の庭のやうに大威張りで腰かけてゐる大男がゐる。ガランドウだ。オイデ/\をしてゐる。行つてみると、そのお菓子屋にラヂオがあつて、丁度、戦況ニュースが始まつてゐる。ハワイ奇襲作戦を始めて聞いたのが、その時であつた。当時のニュースは、主力艦二隻撃沈、又何隻だか大破せしめたと言ふのであるが、あなた方のことに就ては、まだ、一切、報道がなかつた。このやうなとき、躊躇なく万歳を絶叫することの出来ない日本人の性格に、いさゝか不自由を感じたのである。ガランドウはオイデ/\をしてわざわざ僕を呼び寄せたくせに、当の本人はニュースなど聞きもしなかつたやうな平然たる様子である。菓子屋の親爺に何か冗談を話しかけ、それから、そろそろ二の宮へ行くべいか、魚屋へ電話かけておいたで、と言つた。
 バスは東海道を走る。松並木に駐在の巡査が出てゐた外には、まつたく普段に変らない東海道であつた。相模湾は沖一面に白
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