になつた挙句の果には、弾丸の洗礼が休息にしか当らなかつたといふ始末である。なんだい、戦争といふものはこんなものか、と考へると、死ぬなんて、案外怖しくもないものだな、馬鹿らしいほどノンビリしてゐるばかりぢやないか、と考へるのである。――だが、成程、これが戦争でないわけはないが、戦争の全部がたゞこれだけのものである筈はない。
弾雨の下に休息を感じてゐる兵士達に、果して「死」があつたか? 事実として二三の戦死があつたとしても、兵士達の心が「死」をみつめてゐたであらうか?
兵士達が弾雨の下に休息を感じてゐたとすれば、そのとき彼等は「自分達は死ぬかも知れぬ」といふ多少の不安を持つたにしても、無意識の中の確信では「自分達は死なぬであらう」と思ひこんでゐた筈だ。偶然敵弾にやられても、その瞬間まで、彼等の心は死に直面し、死を視つめてはゐなかつたのだ。
このやうなユトリがあるとき、ヤンキーといへども、タッチダウンの要領で鼻唄まじりで進みうる。「必ず死ぬ」ときまつた時に、果して何人が鼻唄と共に進みうるか。このとき進みうる人は、たゞ超人のみである。
つまり、戦争の一部分(時間的に言へばそれが大部分であるけれども)は鼻唄まぢりでも仔細はいらぬ。然し、勝敗の最後の鍵は、そこにはない。爆弾を抱いてトーチカに飛びこみ、飛行機は敵に向つて体当りで飛びかゝる。「必ず死ぬ」ときまつても、尚、進まねばならないのである。かうして、超人達の骨肉を重ねて、貴重な戦果がひろげられて行く。
普通、日本人は、戦争といへば大概この決死の戦法の方を考へてゐる。さうして、こんな大胆なことが、いつたい、俺にも出来るだらうか、といふ不安に悩んでゐるのである。だから、召集を受けて旅立つとき、決して楽天的ではない。だが、パリジャンやヤンキーは楽天的だ。娘達に接吻を投げかけられて、鼻唄まぢりで繰込むのである。この鼻唄は「多分死にはしないだらう」といふ意識下の確信から生れ、死といふものを直視して祖国の危難に赴く人の心ではない。日本人はもつと切実に死を視つめて召集に応じてゐるから、陽気ではなく、沈痛であるが、このどちらが戦場に於て豪胆果敢であるかといへば、大東亜戦争の偉大なる戦果が物語つてゐる。必死の戦法といふものが戦争のルールの中になかつたなら、タッチダウンの要領でも、世界征覇が出来たであらう。
必ず死ぬ、ときまつた時に
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