で、それから、
「あの人、外へ来てるよ」
 幸吉は、とんで降りた。顔を見ると、ウラミを述べるどころか、たゞもう、グニャ/\して、御無沙汰致しました、などと相好くずしている。
 キヨ子は、会社が忙しくって、残業つゞきで、とか、何とか言い訳でもするかと思うと、そんなことは一言も言わない。キヨ子の最初の言葉はこうだった。
「私のことなんか、もう忘れてらっしゃると思ってたわ。あなたはずいぶん道楽なさったのでしょう。私なんか、つまらない女ですもの」
「とんでもない。忘れるどころの段じゃないね。私はもうこの一週間ほど落付きのない思いをしたのは、五十年、はじめてのことさ。それでもビヤ樽にへり目の見えないところをみると、よくよく因果にふとったものだな」
 幸吉はふところから用意の札束をとりだして、
「こんなこと、恥をかゝせるみたいなものだが、事務員して二人の子供を育てちゃア、大変なことさね。気を悪くしないで、納めてもらいたい」
「そんな心配いらないわ」
 キヨ子は極めて無頓着に幸吉の手に札束を返した。
「私の気持だけだから、私にも恥をかゝせないで、納めて下さいよ」
「私、男の人からお金もらったりすること、きらいよ。働いてると、時々、そんなことする人あるけど」
「だって、お前、私の場合は、もう他人じゃないんだから」
「だって、淫売みたいだから、いやだわ。お金に買われたみたい、いやだもの。私、ノンビリしていたいのよ。だから、もう、結婚なんて、考えたくないの」
「だって、見合いをしようという気持を起したじゃアないか」
「あれは気持の間違いですもの。それに公報はきたけれど、公報のあとに本人が復員することも屡々《しばしば》あるそうですもの。だから、夫を待ってるわ」
「それは済まなかったなア。それでも公報はきたことだから、一度、こうなっても、まんざら御主人に顔向けがならねえというワケでもないぜ。だから私も結婚は、あきらめるから、まア、然し、これは、納めて下さいよ。結婚は別として、時々は遊んでくれても、いいじゃないか。金で買うわけじゃアないんだぜ。当節はレッキとした官員さんでも暮し向きが楽じゃないそうだから、ましてお前、女手一つじゃ大変だアな。私の気持だけなんだから」
 無理に女の帯の間へはさんでやると、キヨ子も無頓着にそれなりであるから、
「今晩はともかく一時間でいゝから、うちへ遊びにきておくれ」
「一時間だけね。でも、もう、あんなことしないでね。死んだ主人のこと考えると、可哀そうだから。とても可愛がってくれたんですもの」
「あゝ、いゝとも」
 ともかく一安心。自宅の茶の間の灯の下でまぎれもなくキヨ子の姿を見ることができると、安堵の心は限りもない。御馳走を食べさせ自分は酒を呷《あお》って、ムリムタイに談じこむようにして、再び先日の不思議な思いを確認することができた。まさしく夢ではない。とりのぼせた一時の心の迷いではなく、まさしく目のあたり不思議な思い、たゞ一つ分らないのは女の心だ。
 あんなに堅いことを言うくせに、その身悶えや、夢中のうちに激しくもとめる情の深さは、どういうことだろう。全裸の全身を男に見られることなど一向に羞恥を見せず、される通りに平然としているのであった。
 キヨ子が商売女で有る筈はないが、最も下等な淫売と同じぐらい羞恥の欠けたところがある。断髪洋装ともなると、みんなコレ式のものかと、幸吉はその不思議にも、たゞ驚くばかりであった。
「こんど、いつ会ってくれるね」
「私は水曜日だけがヒマなのよ。あとの日は、洋裁の学校へ通ったり、残業の日だから。オバサンに知られるのイヤだから、会社へ電話ちょうだい。オバサンに羞しいから、今夜のことも言っちゃイヤよ」
「言うまでもねえやな。それじゃア、待つ身はつらいから、約束の日をきめるのはやめにして、私は電話をかけるよ。一週間に一度ぐらいはいゝだろう」
「うん、でもネ、やっぱり主人に悪いと思うから、あんなこと、もう、したくないのよ」
「マアサ、拝むから、旦那の帰還まで、つきあっておくれ」
「えゝ、その代り、誰にも言っちゃ、いけなくってよ」
 と別れた。
 然し、それからの水曜日に電話をかけると、今日は忙しいから、という。次の水曜には出張でいないという。
 すると速達がきて、水曜ごとに同じ男の人から電話がくるのは会社の人たちに邪推されて困るから、私の方から遊びに行くまで待っていてくれ、と書いてあった。
 それから一ヶ月ほどして、戦死の主人を考えると悲しくなるから、主人の生死にかゝわらず、もう自分のことは忘れてくれ、一生、独身で子供の養育につくすから、という手紙がきた。

          ★

 それから一月ほど待ったがキヨ子はこない。
 幸吉も次第に冷静となって、又、仕事に精がでるようになった。
 幸吉は戦争このかた世の中が逆になったと思っていた。屋台のオデンは二十年来の商売であるが、昔は細々と食うのが精一杯で、少し景気よく飲むと、売る酒がなくなり、売る酒を買う算段もつかなくなった。
 戦争になったら、さぞ困るだろうと思っていたのに、焼け野原がひろがるほど、もうかる。物価が上るほど、もうかる。終戦直後の半年ぐらいは超特別で、犬モツ猫モツ鼠でも肉気のものに菜ッパをまぜてカキまわして煮た奴を山とつんでおくと幾山つんでも売りきれる、長蛇の行列、財布などというものは半日の売上げを入れるにも役に立たず、お札というものは石油カンに投げこむ以外に手がないのである。
 だから戦争、時代という奴は幸吉にはワケがわからず、まるでもう夢を見ている心持で、毎日山とつもって行く札束をアレヨと思うばかり、だからキヨ子を知った当座も、戦争と時代、ワケの分らぬ夢のつゞきのような気持で、なんとなく、そんな時代なんだな、という思いをぬけきることができなかった。
 けれども飲食店休業令だのと風当りが強くなり、キヨ子にはふられる、人間なみに多少キモをつぶすような出来事も現れるうちには、幸吉も時代などという正体のわからぬ魔物をはなれて、自分一個の立場というものを自覚してきた。
 あのアマは、ひでえ奴だ、と彼は思った。なんとか腹の虫のおさまることをしないと気持がすまない。ブン殴るというようなことじゃない。幸吉は生れてこのかた、女の子も男の子も殴ったことがなかった。
 なんとかして、正体をあばいてやりたい。時代だの未亡人だの断髪洋装だのという幸吉には苦手のモヤモヤをつきぬけて、あのアマのからだの中の魂という奴をあばいてやる。要するに、もうダマされないぞ、このアマめ、ということなのである。
 然し、もう一つ底をわると、畜生め、然しあのアマは、よかったな、ということになる。そして、なんとなく身のひきしまる情慾にかられるから、畜生め、覚えていやがれ、今度はこっちがダマしてやるから。今に、面の皮をむいてやるから、などと、あれこれと考える。考えたって、幸吉の頭で、どうなるものでもなく、そのうち、もう会わなくなって百三十日もすぎた一日のこと、幸吉は昼酒に酔っ払うと、水曜であるのに気がついて、よかろう、ひとつアマをからかってやろう、と思いついて、直接会社へのりこんだ。
 なかなか大きな会社であるが、受付できくと、その人は三階の何課という部屋だから、そこへ行きなさい、という。鉄筋コンクリーという奴は下駄バキで歩いていゝのやら、会社の廊下というものを勝手にノソノソ歩いていゝのやら、てんでツキアイがないからワケが分らない始末で、ようやく三階の何課という奴をつきとめて、恐る恐るドアをあけてみると、すぐ目につくところに女の子が五六人並んでいて、その中にキヨ子がいる。
「ヘエ、モシモシ」
 と云って、キヨ子の姓をよぶと、顔をあげて彼を認めて、スックと立って廊下へでてきたが、
「ちょッと、待ってね。私、ちょうど、あなたのところへ遊びに行こうと考えていたところよ。先週も、一度行きかけたけど、雨が降ってきたでしょう。だから途中で戻ったわ。十分ぐらいで仕事がすむから、すぐ来るわ」
 と引っこんだ。
 よっぽどノンキな会社と見え、まだ三時半ごろだが、男も女もゾロゾロと方々のドアから現れて帰って行くのがある。
 まもなくキヨ子はイソイソとでてきて、
「私、今日、オヒルをたべなかったから、オナカがへったのよ」
「うちで御馳走こしらえてやるぜ」
 今日に限って珍客招待の用意はしてなかったが、商売柄、品物はそろっているから、忽ち支度はできあがる。
「会社にゴタゴタがあって、ちかごろみんな仕事に手がつかないのよ。私の部の部長と課長も大阪支店と札幌支店へ左センされるでしょう。私、もう、会社やめるかも知れないわ」
「やめたら、食うに困るだろう」
「あら」
 キヨ子はすり寄ってきて、幸吉の肩に断髪をもたせかけて、
「独身生活もノンビリと面白いでしょう。二号だの三号のところへ時々通うなんて、いゝわねえ。二号さんと三号さんと、どっちが可愛いゝの」
「同じようなものさ」
「でもよ、少しは違うでしょう。若い方? 年増の方? 私も若くなりたいわ。二十七八になりたいわね。そのころは、私たち幸福だったのよ。主人がとてもいゝ人だから。私、今日は、ねむいわ。すこし、ねむって、いゝでしょう。おフトンは、こゝね」
 とキヨ子はおフトンをひっぱりだす。まるでもう女房のように馴れ/\しい。
 幸吉は腹の中ではフンという顔をしていた。あさましいほど、たしなみがない。幸吉をなめきっている。幸吉は無学だが、男女の交りにも情趣がなければと思っているが、この女は、あんなことイヤだとか、主人に悪いとかと、そればかり言いながら、男と女の関係に就ては、アンナこと以外の一つの話題も持ち合せず、それ以外に関心がないのである。
「お前はなにかえ、死んだ亭主と幸福だったてえけど、どんな風に幸福だったんだ」
「毎日、幸福だったわ」
「毎日、なんだな、あんなこと、やってたというのだろう」
「そら、そうよ。毎日々々よ」
 幸吉は腹の中でゲタゲタ笑った。これで正体がわかったというものだ。彼はもうあんまり徹底的に女を軽蔑しきっているので、自分でも面喰ったほどであるが、同時に荒々しい情慾がわき起って、情念の英雄豪傑というような雄大な気持になった。
 そこで彼は征服にとりかゝる。侵略でもある。キヨ子の前夫を退治るという意気込みであった。
 自らも驚くほどの逞しい情慾であったが、キヨ子の情慾はさらに執拗であった。幸吉の胸の下につぶれたような断髪があって、さゝやきもとめ、うながしても、幸吉はもう徒らに蒸気のような息をふいて汗みどろに、うごめくばかり、全然だらしのないビヤダルであった。
「主人は病身だったのよ。だから、よく会社を休んだわ。けれども、あの方のエルネギーは別なのよ。病気で会社を休んでも、昼一日私をはなしたことがないのよ」
 幸吉は疲れきってかすんだ耳にキヨ子の声をきいた。
「主人はいろんな風に可愛がってくれたわ。あなたなんかと比較にならないうまさだったわ。あなたはダメね。それに、へたね。主人が生きて帰ってくれるといゝけれど」
 幸吉は腹を立てる元気もなかった。惨敗である。こんなミジメに打ちひしがれたことはなかった。
 女は彼にアイソづかしを言ってるのだから、もう二度と来ることはないだろう。まったく、こんな決定的なアイソづかしがあるものじゃない。ひどいアマだ。
 当節は女がこんな風になっているのかなと考える。パンパンはみんな素人の娘や人妻だというではないか。ひどい世の中になったものだ。
 然し、ふと、死んだ女房のことを考える。死んだ女房は汚なかった。女のような感じではなく、働く家の虫のようであった。そして一日働いていた。洗濯したり、米を炊いたり、菜ッパを切ったり、つくろい物をしたり。然し、その働く虫も、夫婦、男と女のつながりということになると、やっぱりアレ以外に何もなかったではないか。話題もなかった。情趣もなかった。どだい、女のようでなかった。
 してみると、こっちの方は女なんだな、と幸吉は考えた。
 どこの女房だって、女房と亭主は、みんな、
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