宿命の CANDIDE
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)愛好者《アマトウル》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)スタ/\
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 六七年前、菱山と机を並べて仏蘭西語を学んでゐた頃、彼は強度の神経衰弱のやうであつた。眼は濁り、鋭かつた。身体はいつもふらついてゐた。終日読み耽り、考へ耽り、書き疲れて、街頭へ出たものらしい。友達の顔さへ見れば暴風の激しさで語り、その全身の動きと共に論じだしたが、私達に殆んど一語を挿む時間さへ与へなかつた。話の大部はヴァレリイに初まり、ヴァレリイに終つた。
 読書は愛好者《アマトウル》としてでなければ、学研的なそれであることが多い。稀に血と肉を賭けて読む場合もあるが、菱山修三のヴァレリイに至つては、ひと頃の彼の歴史と、生活と、それに感覚も生命も、その全てを賭け、彼自身ヴァレリイの中に発育した。彼はその宿命さへ賭けてゐたかに見えてゐた。
 それは、純一無垢、多感極まりない少年にのみ許された唯一の至高な場合であつて、あの頃、菱山はその至高な少年であつた。
 我々は結局二人の少年であり得ない。そして私は、私も嘗て一人の少年であつたが、菱山のやうな無類の激しさで一先人に血と肉を、その宿命を賭けるほどの、生死を通した読書の機会は遂ひに持たずに少年を終つた。私は今も落莫として己れの影を見失ひ、我れを見凝める厳粛な純情を暗闇の幕の彼方へ彷徨《さまよ》はせてゐる。
 菱山はヴァレリイを見凝めることに於て自らを見凝め、読書が、同時に、激しい創造への其の同じ力となるのであつた。それ故、菱山はヴァレリイの中に育ちながら、遂ひにヴァレリイの亡霊となることはなかつた。彼は自らの血肉の道を歩きつづけ、血肉の詩を綴つてゐた。世に稀な天賦によらなければ、このことは出来ない。
 至高な少年は、その独特の方法で、その独特の生き方で、彼なりに今成人した。彼の近頃の詩は私を打つこと甚しい。
 我々の精神史の中では、絶対の拒否の中にも宇宙が育ち、現実を、生を、虚無と死へ還元したときに、生の最頂点を一線にひた走る自我の歴史が初まる。宿命の宇宙が初まる。菱山は此の宿命の宇宙に住み、濾過されてきた実体を、観念を、そして自らの宿命を彫り刻み、綴り合はしてゐる。
 先日、疲労しきつた私は、力を索《もと》めて黄昏の神楽坂《かぐらざか》を菱山の家へと急いだ。私の声に菱山は書斎から飛び降りてきたが、私の顔色が悪いと言つて、いきなり顔を悲しく顰めた。彼の顔色は私よりも尚ひどかつた。二人はすぐ散歩に出た。
「お母さん、足袋をはく方がいいかしら? その方がいいね」
 彼は一人で頷きながら、私の前で足袋をはいた。
「お母さん、傘を持つてゆく方がいいかしら? あゝ、その方がいいね」
 彼は又頷きながら傘をだいじに小脇に抱えて出てきたが、一向天候なぞ気にかけずに、スタ/\歩きだした。雨の降りさうもない静かな黄昏であつた。
 レストランへはいると、酒の呑めない菱山は、突然女給を呼び寄せて私のためにビールを命じた。
「僕は少年のころ神経衰弱でね、燈台のある漁村へ保養に行つてゐたのだが……」
 彼は語りだした。
「燈台の硝子は罅《ひび》だらけなんだよ。それはね、夜になると、燈台の灯に向つて候鳥がまつしぐらに飛んできて、自らを光の塊まりに衝突せしめてね、頭を砕き、硝子に血しぶきを散らして、垂直にペルチカルマンにね、ペルパンヂキュレエルマンにね、暗闇の海へまつ逆様に墜落するのさ、鳥は愚かだよ。併《しか》し、僕らの一生も……」
 菱山は傷ましい顔に、宿命の瞳を氷らせて私を見た。
 現実をひとたび虚無と死へ還元し、さうして出発した火花のやうな頂点を縫ふ彼の精神史、それは彼の宿命的な詩の方法であるが、彼の現実も、矢張り愚かな候鳥となつて、ひた走り、熱狂し、死と共に自らの宇宙を終るほかに方法はないのであらう。その思ひは、また私にも強い。私は生活に疲れても、熱狂に疲れる時はないであらう。私の熱狂は白熱する太陽となつて狂ひ輝くことはあつても、停止する不可能となつて低迷することを好まない。
 私は、近頃とみに此の思ひが強いのであるが、私の小説の中に一片の詩があつてさへ甚しく気に入らない。それにも拘らず、この気持は心の奥にまだ錬りきれずにゐるのであらう、机に向ふと、やはり愚劣な詩情を小説の中へしるしてゐることが多いのである。嘗て或る詩人的小説家は、「ボードレエルの一行に如《し》かない」自らの小説を歎き卑しんだが、それは彼の敗北であつて、小説本来の敗北ではない。小説は詩であつてはならないのだ。小説は生きた人間のみを歌はねばならない。私の苛立ちは、私の疲れは、時々詩人菱山に悲しい皮肉を言はせてしまふ。いはば、甘へるや
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