うなものでもあるが。
 ある夜、私は酔ひ痴れてゐた。
「チエホフの桜の園は、結局に於て尨大な詩ではないか。いはゆる詩は人間のアニマルを描いてゐない。アニマルを描きつくして顕れた大いなる詩の前では、いはゆる詩は無意味ではないか」
 菱山はその夜疲れきつてゐた。私の惨酷な言葉に彼は泣きさうであつた。
 翌《あく》る日、私は彼の手紙を受け取つた。
「友よ、詩の終るところに小説がある。併し、小説の終るところにも詩があるのだ」
 彼の言葉は正しい。彼の詩は絶対の極点を貫き走つてゐるのだから。そして私は彼の詩をこよなきものに愛誦してゐる。わが友は日本の生んだ最も偉大な詩人の一人となるであらう。このことは、もはや私の確信となつた。
 菱山は成人し、そしてヴァレリイを征服した。彼は今度、ヴァレリイの「海辺の墓」を出版したが、此れはいはば、至高な少年の成人記念碑となるのであらう。そして、いま菱山はヴァレリイを海辺の墓へ埋葬してしまつた。
 この稿を書いてゐる明日、その勤め先の税関の帰路に、菱山は僕の家へ田園の黄昏を仰ぎにくるのだといふ。この詩人は、僕の住む辺鄙な村の大きな夕暮が好きなのだ。希はくは、純情な詩人のために、明日うるはしき黄昏であれ。だが私は、空を仰ぐ静かな心を失ひ忘れて、もはや年月を過ぎてしまつた。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「桜 第二号」中西書店
   1933(昭和8)年7月1日発行
初出:「桜 第二号」中西書店
   1933(昭和8)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング