昏の神楽坂《かぐらざか》を菱山の家へと急いだ。私の声に菱山は書斎から飛び降りてきたが、私の顔色が悪いと言つて、いきなり顔を悲しく顰めた。彼の顔色は私よりも尚ひどかつた。二人はすぐ散歩に出た。
「お母さん、足袋をはく方がいいかしら? その方がいいね」
彼は一人で頷きながら、私の前で足袋をはいた。
「お母さん、傘を持つてゆく方がいいかしら? あゝ、その方がいいね」
彼は又頷きながら傘をだいじに小脇に抱えて出てきたが、一向天候なぞ気にかけずに、スタ/\歩きだした。雨の降りさうもない静かな黄昏であつた。
レストランへはいると、酒の呑めない菱山は、突然女給を呼び寄せて私のためにビールを命じた。
「僕は少年のころ神経衰弱でね、燈台のある漁村へ保養に行つてゐたのだが……」
彼は語りだした。
「燈台の硝子は罅《ひび》だらけなんだよ。それはね、夜になると、燈台の灯に向つて候鳥がまつしぐらに飛んできて、自らを光の塊まりに衝突せしめてね、頭を砕き、硝子に血しぶきを散らして、垂直にペルチカルマンにね、ペルパンヂキュレエルマンにね、暗闇の海へまつ逆様に墜落するのさ、鳥は愚かだよ。併《しか》し、僕らの一生も……」
菱山は傷ましい顔に、宿命の瞳を氷らせて私を見た。
現実をひとたび虚無と死へ還元し、さうして出発した火花のやうな頂点を縫ふ彼の精神史、それは彼の宿命的な詩の方法であるが、彼の現実も、矢張り愚かな候鳥となつて、ひた走り、熱狂し、死と共に自らの宇宙を終るほかに方法はないのであらう。その思ひは、また私にも強い。私は生活に疲れても、熱狂に疲れる時はないであらう。私の熱狂は白熱する太陽となつて狂ひ輝くことはあつても、停止する不可能となつて低迷することを好まない。
私は、近頃とみに此の思ひが強いのであるが、私の小説の中に一片の詩があつてさへ甚しく気に入らない。それにも拘らず、この気持は心の奥にまだ錬りきれずにゐるのであらう、机に向ふと、やはり愚劣な詩情を小説の中へしるしてゐることが多いのである。嘗て或る詩人的小説家は、「ボードレエルの一行に如《し》かない」自らの小説を歎き卑しんだが、それは彼の敗北であつて、小説本来の敗北ではない。小説は詩であつてはならないのだ。小説は生きた人間のみを歌はねばならない。私の苛立ちは、私の疲れは、時々詩人菱山に悲しい皮肉を言はせてしまふ。いはば、甘へるや
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング