小林さんと私のツキアイ
坂口安吾

 小林さんにはじめて会ったのは、青山二郎の私宅であった。そうだなア。あれは、私の二十六の時らしいな。すると、昭和六年、頃は夏だ。なぜなら、青山二郎がサルマタ一ツの姿だったから。
 私が「青い馬」という同人雑誌に「風博士」というのを書いて牧野信一に文藝春秋誌上で大そうなおほめの言葉をうけた。それが縁で文藝春秋に作品を書くことになったが、はじめて書いたのが、その年の盛夏の頃であった。それ以来、牧野信一が方々の彼の親友のところをひきまわしてくれて、私も文壇というところの一角だけを覗くようになったのである。
 したがって、私が青山二郎宅に現れたのも、牧野信一にひきつれられての文壇遍歴の一コマであったにきまっている。もちろん、青山に会うのもその時が初対面。それからもう一人、その席に河上徹太郎がいた。牧野、河上、私はよく三人づれで歩いたから、その時も一しょに青山を訪ねたのだろう。小林はおくれて現れたのである。
 私は当夜のことを全てよく記憶しているが、それは当日私が腹をこわして酒がのめなくて、一同の酒宴をただ一人傍観したからである。そして、小林、河上、青山については記憶が鮮明であるのに、牧野さんがその席にいたのかいないのかシカと覚えがない状態であるのは、すでに彼との交りが重っていたのに、他の三人はその時が初対面のせいであったろうと思う。
 小林さんは頭髪ボウボウ、あのときは人相がよくなかったね。彼は「オフェリヤ遺文」を書いてる最中であった。書き悩んでいたのであろう。書けない、ということを云っていた。フム、深刻そうな顔をしていやがるなア、というのがその時の私の印象であった。そのほかに特にこれという印象はない。あの席で私が一番ハッキリ印象しているのは、徹ッちゃんだ。小林と何かカラミあって、つまり、酔っぱらって論争したという意味だ。ちょッと言葉がつまったんだね。青山がニヤニヤと河上をうち見て、
「二の句のつげない顔をしてやがるよ」
 と言った。四五秒して徹ッちゃんキッと顔をあげて、同時になんとなくボンヤリと立ち上ったような記憶がある。そして、「二の句のつげないことは、わるいことか」と、云やアがったね。なかなかよろしい武者ぶりであったよ。
 その半年ぐらい後だろう。春陽堂から「文科」という半営業的な同人雑誌がでた。同人の頭主格は牧野さんで、小林、河上
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