又散々殴つたり蹴飛ばしたりして泣きほろめいて戻つてきた。
さて窶《やつ》れた土左衛門は麻油を攫《さら》ふやうにして山の湯宿へ走つた。湯へせかせかと飛び込んでみたり、宿の親父と碁を打つかと思ふうちにスキーを担いで雪原へ零れてみたり、とにかく気忙《きぜわ》しく苛々うろつきまはつたすゑには、夜がくるとガッカリして消えさうな様子で縮こまつたりしてゐる。麻油は痴川に一向おかまひなしに、まるで自分の一存で来たやうな落付きやうで、ほかに相客の一人もない静かな廊下を闊歩して行つて湯につかつたり、スキーを習つたりしてゐたが、痴川と顔の会ふときには大概にやにやして煙草をくゆらし乍ら、又その上にも面白さうに笑ひ出したりするのである。さういふ麻油に、痴川は何かといふと愚痴りかけたり怒つたりした。
ある夜のこと、麻油は鏡を覗き込んで化粧を直したり、それよりも自分の顔を余念もなく眺めたりしてゐたが、急ににやにやしてしよんぼりしてゐる痴川の方を振向いて、
「あたし、もう、小笠原さんの顔を本当に忘れちやつた。どうも思ひ出せない……」
と、朗らかな声でさう叫んで、とても爽快に大笑ひした。
痴川は俄にぎよつと顔色
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