又散々殴つたり蹴飛ばしたりして泣きほろめいて戻つてきた。
 さて窶《やつ》れた土左衛門は麻油を攫《さら》ふやうにして山の湯宿へ走つた。湯へせかせかと飛び込んでみたり、宿の親父と碁を打つかと思ふうちにスキーを担いで雪原へ零れてみたり、とにかく気忙《きぜわ》しく苛々うろつきまはつたすゑには、夜がくるとガッカリして消えさうな様子で縮こまつたりしてゐる。麻油は痴川に一向おかまひなしに、まるで自分の一存で来たやうな落付きやうで、ほかに相客の一人もない静かな廊下を闊歩して行つて湯につかつたり、スキーを習つたりしてゐたが、痴川と顔の会ふときには大概にやにやして煙草をくゆらし乍ら、又その上にも面白さうに笑ひ出したりするのである。さういふ麻油に、痴川は何かといふと愚痴りかけたり怒つたりした。
 ある夜のこと、麻油は鏡を覗き込んで化粧を直したり、それよりも自分の顔を余念もなく眺めたりしてゐたが、急ににやにやしてしよんぼりしてゐる痴川の方を振向いて、
「あたし、もう、小笠原さんの顔を本当に忘れちやつた。どうも思ひ出せない……」
 と、朗らかな声でさう叫んで、とても爽快に大笑ひした。
 痴川は俄にぎよつと顔色を変へて、それから暫くして思ひ出したやうに上体をよろめかせたが、今度はいきみたつて憤慨して、お前くらゐ冷酷で薄情な奴はないと喚いたり愚痴つたりしたあげくには、麻油に縋りついて到頭めそめそ泣き出してしまつて、
「俺だけは忘れないやうにしてくれ。俺はもう自分のれつきとした身体さへ、手で触れてみても実在するやうには呑み込めない頼りない人間だ。この気の毒な可哀さうな俺だけは忘れないやうに、頼む、お願ひだ……」
 と悲しい声を張りあげて、断末魔のやうに身体を顫はせて掻口説《かきくど》いてゐた。その痴川を麻油は母親のやうに抱いてやつて、けたたましく笑ひ出したが、
「いいの/\。大丈夫よ。貴方の顔は忘れつこないわ。だつて、とても風変りなんだもの……」
 麻油は又一頻り哄笑して、もう文句も言へずに麻油の腕の中でふんふん頷いてばかりゐる痴川を一層強く抱きしめ、優しく頬ずりして、汚い泪を拭いてやつた。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第一一年二号」
   1933(昭和8)年2月1日発行
初出:「文藝春秋 第一一年二
前へ 次へ
全17ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング