。
そのころ、つまり、どうやら妄想を抑えつけることに成功して、もとの自分に戻ったころだが、私は、はじめて、小説を書いた。それは、まだ小説家になろうなどゝいう考えではなく、チエホフの短篇に感動したあまり、自分も書いてみたくなって、一夜のうちに書いたものだが、今、記憶しているのは、老人が主人公であったこと、出来栄えはとにかく、スラスラと、一夜に一冊のノート一ぱいの文章がよどみなく書きあげられたという快感だけである。
私が去年の夏、旅先で仕事をしようとして、ノートブックを用いることにした原因の一つは、この幼い記憶、幼い快感が、私を誘う力となっていたことも事実である。
然し、すべてそれらの希望が虚しいものであることが分って後は、それらのすべてが、たゞ負担となり、虚しい希望の故に、私は、更に、苦悶し、希望によって、地獄を見つめるようなものであった。
私はよく熱海へ行ったが、希望の虚しさに苦悶して、熱海まで行き得ず、小田原で下車して(私は十年ほど以前に小田原に一ヶ年ほど住んでいた)酔い痴れざるを得なかった。然し、熱海へついて後は、益々多量に覚醒剤をのみ、まったく必死の覚悟によって、仕事に没
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