した。表面の状況はそうであるが、今にして思えば、精神病的徴候が、すでにハッキリ現れていたのである。つまり、厭人癖である。そして、一種の被害妄想である。ちょッとした思考力の集中持続にすら苦心サンタンしつゝある自分に対して、営利的なつまらぬ仕事を持ちかけてくる人間への反感、病的な反感であった。私はその時以来、注文を拒絶したのみでなく、一切の面会も拒絶した。そして、軽い幻聴が現れはじめたのは、その頃からであった。それは、極めて軽い幻聴で、あるリズミカルな音、単調な、たゞ、遠近のある音の反復、それだけであった。又、いちじるしく視力が衰えはじめたが、これは今もそうであり、多分病気に関係なく、これは老眼のせいだろうと思われる。それにしても、視力が日によって乱れ方が異り、ある時は眼鏡をはずすことによって、ある時は眼鏡をかけることによって、文字を読むことができるという乱脈さには、日々不快な思いを重ねた。
 私は一切の面会を拒絶したが、居留守を使う不快に堪えがたくて、できるだけ、旅行にでた。旅にでれば、気分が変って、仕事ができるかも知れない、という希望の方が、より大きかったが、まもなく、その希望の虚しさ
前へ 次へ
全20ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング