歩いて、農家の娘に可愛い顔立の多かったこと、然し、偶然かも知れない。昨秋はじめて富士見へ行くとき、家の近所のカストリ屋のオヤジ(と云っても三十ぐらいの威勢のよいアンチャンであるが)が、ちょうどその土地の生れの人であるから、一緒に行ってもらった。体力が衰えて、病人への見舞いの食糧をつめこんだボストンバッグを自分で持つことが出来なかったせいもあった。はじめて歩く野良に可愛い娘が多いので、このへんは美人が多いね、と云うと、そうですとも、私は特務機関で、日本中はおろか、台湾、支那を歩きましたが、私の生れ故郷ぐらい美人のいるところはありませんや、と威張った。私の女房が、その一人です、と、高原の秋空に、彼はカラカラと笑った。彼はそれが言いたかったゞけで、ほかの証言は当にならない。
 私たちは上諏訪の某ホテルへ行ったが、私たちの係りの女中が、目の覚めるような娘であった。女中の立ち去るや、彼は胆を失い、しまった、はやまった! と叫んだが、これはつまり、結婚をはやまった、という長大息であったらしい。彼の女房自慢も当にならないのである。翌朝、私たちは諏訪神社へ自動車を走らせた。神社を見終って、彼はいかにもなつかしげに、はア、こんな神社ですかネ、おかげ様で、はじめて、見ました、と云ったが、要するに生れ故郷の神社まで彼は知らなかったのである。ちなみに、彼は上諏訪の生れであり、現に両親もそこに住んでいるのである。こういう不思議な案内人に導かれて、私は富士見のサナトリウムへ行った。この案内人は、生れ故郷の四周にそそり立つあらゆる山々の名も知らなかった。こうして、私はそれ以来、時々富士見へ出かけたが、この案内人の水際立った不思議さが、結局、何よりの取柄であったようだ。ほかの思い出は、苦しいことばかりであった。
 然し、富士見のサナトリウムの患者たちは、私の訪れをいつもあたゝかく迎えてくれた。疲れきった私は、病人に同情され、病人が看護婦をつれてきて、葡萄糖やビタミンの注射を打ってくれたりしたが、透きとおるような皮膚をした青年たちと食事をしたりしていると、一そうこの山々がなつかしく、都会がうとましく思われるのであったが、皮膚のすきとおる青年たちは一様に山々を呪い、都会にアコガレをよせていたが、その思いは、まことに激しく、目覚ましいものであった。
 私は精神病院へ入院して、やがて病人たちを観察しはじめ
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