その気力も失った。それと同時に、もはや一行も書き得なくなった。それは去年の十二月半頃からのことであった。もはや外出の気力も失ったのである。
私は、然し、さらに、勇気をふるい起した。
私の長篇小説の舞台の三分の一ほどが京都になっていた。私は以前、一年半ほど京都に住んでいたが、十何年も昔のことで、もう、京都の言葉が思いだせない。一度は京都へ行く必要があったので、その旅行に希望をかけた。私は大晦日の朝の急行で、東京を出発した。これが致命的な失敗となった。
東海道線も、その翌日、つまり一月からは汽車にスチームが通じたのだが、大晦日の朝の急行はスチームがなかった。寒気のために、全身の顫《ふる》えがとゞまらず、鼻から、口から、まったく寸秒の暇なく洟汁が流れ、こみあげ、私は吐き気のために、そして、それを抑えるために、胃がねじくれ、意識が、苦痛以外には、すべて、失われるようであった。
その夕方の六時、京都へ辿りついた時、私はまったく病人であり、発熱して、旅館に病臥してしまった。京都へ着いたら、と、色々と思い描いていた希望は、すべて虚しく、約二時間、京都の街をうろついたほかは、旅館にとじこもって、炬燵《こたつ》に寝倒れ、その肉体的な苦痛よりも、仕事と闘うために最後の希望を托していた、その打撃が、まさしく私を打ちふせてしまったのである。
この旅行の取柄と云えば、私の泊った旅館が、終戦まで宮様の邸であったことで、その間どりは、私がはじめて見たものであった。つまり、廊下を通らずに、大きな座敷を通らなければ、奥へ行くことが出来ない仕掛けになっており、その座敷が「トノイ」の人のつめたもののようであり、この関所を通らなければ、夫人も石川五右衛門も奥へは行きがたい仕組みになっているのである。又、昔は、和風の本館があったと思われるところが、洋館に造り変えられ、そこには、まだ宮様用の、紋章づきの、玉座のような椅子があった。クッションのない板のように堅い椅子で、宮様はこれにかけて訪客に接したのであろうが、生活の堅苦しさが思いやられるような椅子であった。私はキャッチボールのできるような広い和室へ通され、その片隅に炬燵をつくってもらって寝倒れていた。
ただ失意のみをいだいて、京都から戻ってきた。それでも一月中は、まだ覚醒剤を用い、衰えはてた注意力をなんとかしてかきたて、仕事をしようと努力した。虚
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