将棋の鬼
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)呷《あお》った
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ワア/\
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将棋界の通説に、升田は手のないところに手をつくる、という。理窟から考えても、こんなバカな言い方が成り立つ筈のものではない。
手がないところには、手がないにきまっている。手があるから、見つけるのである。つまり、ほかの連中は手がないと思っている。升田は、見つける。つまり、升田は強いのである。
だから、升田が手がないと思っているところに手を見つける者が現れゝば、その人は升田に勝つ、というだけのことだろう。
将棋指しは、勝負は気合いだ、という。これもウソだ。勝負は気合いではない。勝負はたゞ確実でなければならぬ。
確実ということは、石橋を叩いて渡る、ということではない。勝つ、という理にかなっている、ということである。だから、確実であれば、勝つ速力も最短距離、最も早いということでもある。
升田はそういう勝負の本質をハッキリ知りぬいた男で、いわば、升田将棋というものは、勝負の本質を骨子にしている将棋だ。だから理づめの将棋である。
升田を力将棋という人は、まだ勝負の本質を会得せず、理と云い、力というものゝ何たるかを知らざるものだ。
升田は相当以上のハッタリ屋だ。それを見て、升田の将棋もハッタリだと思うのが、間違いの元である。
もっとも、升田の将棋もハッタリになる危険はある。慢心すると、そうなる。私は現に見たのである。
昨年の十二月八日、名古屋で、木村升田三番勝負の第一回戦があって、私も観戦に招かれた。
私が升田八段に会ったのは、この時がはじまりであった。
手合いの前夜、新聞社の宴席へ招かれた。広間に三つテーブルをおく。三つ並べるのじゃなくて、マンナカへ一つ、両端へ各々一つずつ、離せるだけ離しておいてある。
これは新東海という新聞社の深謀遠慮で、木村と升田は勝負仇、両々深く敵意をいだいている、同じテーブルに顔を合しては、ケンカにでもなっては大変だという、銀行や一般会社じゃ、こんなことまで頭がまわらぬ。新聞社雑誌社というものは、御本人も年中酔っぱらってケンカしているものだから、こういうところは行届いたものである。
私と升田は同じテーブルで、こゝは飲み助だけ集る。升田は相当の酒量である。私はウイスキーを一本ポケットへ入れて東京を出発した。升田と私がこれをあけて、升田はそれから、かなり日本酒も呷《あお》ったようだ。
私は酔っ払うと、アジル名人なのである。口論させたり、仲直りさせたり、そういうことが名人なのである。新東海の荒武者もそこまでは御存知ないから、テーブルを三つ離して安心していらっしゃる。ダメである。
東京の将棋指しは升田は弱い弱い云いよるけど、勝ってるやないか、などゝ微酔のうちは私にブツブツ云っていたが、そのうちに泥酔すると、名手が悪手になる、なに阿呆云うとる、阿呆云うて将棋させへん、木村など、なんぼでも負かしてやる、だんだん勇ましくなってきた。木村前名人、酒量は少いが、これも酔ってる。名題の負けぎらい、黙してあるべき、君はまだ若いよ、君より弱くなるほど、まだモーロクはしないよ。俺が強い。ナニ、お前なんか強いもんか。とうとう、離れた席で各々立膝となって、人々の頭越しに怒鳴り合っている。
オレが強い、お前なんか、両々叫び合ったところで、私がなんなくまとめあげて、宿屋へもどる。それから碁を打つ。木村前名人が碁の初段で、升田八段が、あいにくなことに、ちょうどそれと同じぐらいの力量なのである。
そこで又、碁石を握って、オレが強い、お前なんか、すごい見幕でハッシ、ハッシ、升田白番で十目ほど勝った。
然し、これがそもそも升田失敗のもと。私や升田のような酒飲みは、酔っ払ってすぐ眠ると熟睡できるが、酔いがさめかゝるまで起きていると、さア、ねむれなくなる。私は宿へ戻る、すぐ寝ようとすると、まア碁を一局と、木村升田両氏と一局ずつ、それから、両氏のケンカ対局を見物して、酔いがさめ、宿に酒がないから、とうとう眠れなくなってしまった。升田八段が又、殆ど眠れなかったらしい。
翌日の対局は結局木村が勝った。
私が観戦していたところで、将棋はてんで分らない。見ているのは御両名の心理だけだが、将棋そのものが分らないのだから、それに伴う微細な心理はやっぱり分らない。きわめて大づかみの分り方しかできないのである。
然し、この将棋に関する限り、升田は心構えに於て、すでに敗れていた。木村何者ぞ、なんべんでも負かしてやる、軽く相手をのみ、なめてかゝっていたから、軽率で、将棋そのものがハッタリであった。
急戦か、持久戦か、という岐《わか》れ目のところで、
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