ゐたころの、東奔西走、夜汽車にゆられて寝不足で対局場へ駈けつけたころの彼ではない。二年間の名人位失格は彼に多くの教訓を与へたのだ。彼はもう根柢的に謙虚であつたし、一局の勝負に心魂をさゝげつくす勝負師であつた。対局前日に対局場の下見をして、人が畳の上を歩くたびに畳敷きの全体がブルブルふるへることも知つてゐたし、恐らく皇居といふと勝手が違つて、門衛だの、どつちへ行つたらいゝのやら、対局当日にはじめて出かけたのでは色々と慌てゝ取り乱すこともあるかも知れない。さういふ心配が起るのは当然で、一介の見物人にすぎない私ですら、対局場へ辿りつくまでは異様な気持であつた。
 私自身のさういふ不安に思ひ合はせても、木村が対局前日に下見をしたといふ心構えには、彼の万全の用意が見られるのである。対局二日前に、湯河原ならぬモミヂの二階で酔つてゐた塚田と比べて、これらの心構えの相違はハッキリ勝負にでゝくるはづだ。塚田のあれは第四局目であり、第五局目ではなかつたけれども、もう遅い。あそこでまいた種がここで芽をだすのであり、すべてこれらの心構へといふものは、一朝一夕のものではない。十年不敗の木村は十年間にまいた種の累
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