がほかに有るはづはないのだが、そこの何頁だけを手垢で黒く汚れてしまふほど読んでゐるので、をかしかつた。彼は孤独で、さびしいに相違ない。彼の切なさは、私にも同感できるものであつた。それは去年の秋であつたが、呉清源は神様からはなれるかも知れない、はなれたい気持がうごいてゐる、といふことを新聞の人からきいた。その時から半年あまりすぎてゐた。
座談会で、私はつとめて神様のことを訊かうとしたが、彼はヌラリクラリと体をかはしてしか語らうとしなかつた。なぜ神様とはなれたか、どういふところが不満であつたか、棄教した今日ハッキリ答へるかも知れないと思つてゐたが、神様そのものは実在します、といふやうな返答の仕方で、つとめて要領を得られないやうな話しぶりであつた。
いづれは又、別の神様へ辿るであらう。
要領を得ない座談会で、面白をかしくもなく、後味がわるかつた。告白狂じみた我々文士とちがつて、呉八段がつとめて傷口にふれたくない気持はわかるのであるが、もつと気楽に、言ひきれたら、彼の大成のために却つて良からう、と私には思はれた。
座談会が終つて帰らうとすると、廊下に女中が待つてゐて、読売の文化部長の原君が来てをり、お待ちしてをられます、といふので、二階へ行つた。すると、塚田名人と升田八段もゐるのである。北斗星君、赤沢君、みんな知つた顔である。
私はトッサにヤヤと思つた。将棋の名人戦が塚田二勝一敗で、四回戦が翌々日の五月十一日に湯河原で行はれることになつてゐる。木村が挑戦者に勝ち残つて、名人戦がはじまつた。それは私が精神病院に入院中の出来事で、その一回戦は、木村が全然勝つた将棋に、深夜に至つて疲労から悪手の連発で自滅したといふ。私は深夜になると彼がボケルのを見て知つてをり、益々甚しいらしい報道にウンザリして、名人戦への興味を失つてゐたのである。
ところが、原君の座敷へ行つてみると、はからざる塚田、升田がマッカな酔顔をあげてニヤニヤしてゐる。もつとも、升田の方は青くなる酔顔だ。もう相当に酒がまわつてゐる様子であつた。
私がヤヤと思つたのには、わけが有るのである。一昨年のことであるが、木村升田三番勝負の第一局が名古屋で行はれ、私は観戦記を書くために東京から木村と同道で出向いた。そのとき、木村が升田に向つて、塚田は偉いよ、昔から実に勝負を大事にするからね、オレみたいに、明日の対局に今夜対局地へくるなんてことはしないからね、対局の三日ぐらゐ前、おそくて二日前には対局地へついて、静養してゐるのだからね、と云つた。
升田は木村の一日前に名古屋へ来てゐた。その心構へに当てつけたワケではなかつたらう。彼の自戒とも自嘲ともつかないやうな心事と、それに若干の誇り、オレは立場上さうすることが出来なかつたんだといふ見栄も、いくらかは含まれてゐたかも知れない。
彼は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた。彼はそれまでストレートで升田に負けてゐた。それは概ね東奔西走の間に於ける対局で、塚田に敗れて名人位を譲る七回のうちにも、あわたゞしい対局をいくつか行つてゐたといふ。それでも勝てる、と思つてゐたのだ。升田に敗け、つゞいて決定的な破綻、名人位を譲るといふ悲劇にあひ、彼の自信は根柢から崩れ去つたのである。
あれは二年前の六月六日であつた。覚え易い日附であるから、忘れることがないのである。中野のモナミで行はれた名人戦の第七局。その対局で彼は名人位を失つたのである。私はその対局をツブサに見てゐた。記録係までウンザリして散歩にでるやうな木村の長考の間も、ガランとした対局室に、常に私だけが二人を見まもつてゐたのである。
まことに木村は断末魔にもまさる切なさであつた。彼は夕食にも手をつけなかつた。もうその時から疲れきつてゐたが、夜の九時ころ、塚由が長考してゐる時、彼は記録係へ「応接間へよびに来てね」と云ひ残し、薄暗い応接間の肱懸《ひじかけ》椅子にグッタリのびてゐた。
零時ごろには、すでに敗北は明らかで、一秒ごとに名人位を去りつゝある苦悶がにじみでゝゐた。ともすれば、その苦悶に破綻しようとする苦痛を抑へて、彼は必死に気持を立て直さうとしてゐた。そのために、彼は顔面朱をそゝぎ、鬼の顔に、ふとい静脈が曲りくねつて盛りあがつてゐた。悲しい殺気であつた。彼はもう将棋を争つてゐたのではなく、名人位を失ふといふ切実な苦悶に向つて殺気をこめて悪闘してゐたのだ。
駒を投じて数時間後、朝酒に、彼はいくらか落ちつきを取り戻してゐた。
オレは時間に負けたんだ、と彼は云つた。オレは読んで読みぬくんだからね、と。
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