勝負師
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)呉清源《ごせいげん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本因坊|薫和《くんわ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1−85−31]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)イヤ/\
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 五月九日のことだ。この日林町のモミヂといふ旅館で、呉清源《ごせいげん》八段をかこんで、文人碁客の座談会があつた。豊島与志雄、川端康成、火野葦平に私といふヘボ碁打である。呉八段も今度例の神様からはなれたので、この座談会では気軽に神様の話もできるだらうと、私はそれをタノシミにしてゐたのである。
 去年、本因坊|薫和《くんわ》・呉清源の十番碁の第一局目が火蓋をきつたのがこの旅館で、私はそのとき観戦記者として対局の前夜から対局者と一しよにこの旅館へカンヅメにされたことがあつた。その晩、本因坊と私は定刻にモミヂへ来たが、呉八段は神様と一しよに行方不明で、主催者の新聞を慌てさせたものであつた。その当時の呉八段は、神様のせゐで、見る目も痛々しいものであつた。神様は信者もへり、後援者もなく、ケン族五六名ぐらゐの小人数に落ちぶれて、津軽のどこかへ都落ちして、神様ケン族の生活費はもつぱら呉八段の対局料に依存してゐたやうである。
 夜陰に及んで、やうやく姿を現した呉八段は、ヨレヨレの国民服に、手垢や泥にまみれた小さなズックのボストンバッグを小腋にかゝへてゐた。ひどい疲れ方である。新聞社の人の話によると、神前の行事に終夜ねむらされぬことが多く、コックリやりだすと蹴倒されて魂に気合をかけられ、睡眠不足のアゲクには精神異常となつて、妄覚を起してしまふ。つまり呉八段に対する神様の戦法の最有力の一つは、眠らせぬ、といふことらしい。彼の対局料一つによつて神様ケン族の生計を支へてゐるに拘らず、神前に於て彼の蒙る虐待は特に甚しいものださうで、さる諷刺雑誌の記者が信徒に化けこむことに成功したが、この記者も呉八段が神の怒りを蒙つて内務大臣だかに荒々しく蹴倒され、踏みつけられるのを見たといふ。
 去年の春先であつたが、私は津軽から上京中の呉八段と彼の宿舎で碁を打つた。その翌日、彼は上京中の対局料をたづさへて津軽へ戻るところであつたが、封も切らずに、全部神様にさゝげてしまふのだからね、と、新聞の人がガッカリして私に云つた。
「それで、対局に上京といふ時に、たつた三百円、旅費を下げ渡されてくるのだからね」
 呉八段の世話係の彼は、狂信ぶりがイマイマしくてたまらなさうであつた。
 本因坊戦の対局の朝、呉八段は八時をすぎて、本因坊や私が新聞を読み終つて雑談してゐるところへ、やうやく起きてきた。よほど熟睡したらしかつた。それでゐて、イザ対局がはじまると、本因坊の手番の時は、自然にコックリ、コックリやりだす。フッと目がさめ、気がついて、立ち上る。たぶん冷水で顔を洗つてくるのぢやないかと思はれた。なるほど、神様がねむらせないといふのは本当らしいなと思つた。幸ひ対局中は神様からはなれてモミヂへカンヅメであるから、次の夜も熟睡ができて、対局の二日目から、目がパッチリと、睡気もはなれてゐた。
 この碁は第一日目を終日コックリ、コックリ打つた碁だから、彼に良い筈はない。本因坊必勝の局面であつたが、三日目に本因坊が悪手で自滅してしまつたのである。この対局の数日前に神様ケン族は上京して、呉八段の下宿先へ落ちついた。ここでドンチャン騒ぎのお祈りを日夜にわたつてやらかすので、家主に立退きをせまられ、神様は警察へ留置された。それを呉八段がもらひ下げて、ネグラを求めて何処かへ去つたが、恐らく呉八段はそれらの俗事のためだけでも殆ど眠る時間がなかつたであらう。まつたく見るも無慙な様子であつたが、カンヅメといふことゝ、対局が三日にわたつて行はれ、朝九時から夕方の六時までといふ無理のない時間割が幸ひして、一日は一日毎に生色をとり戻してゐた。今の将棋式にその日指しきりといふ徹夜例であつたら、コックリ、コックリの呉八段に勝味はなかつたであらう。
 第七局が東京で行はれた時も、私は見た。そのとき、豊島・火野両氏も来てをり、呉八段の勝に終つて、対局者をかこんで酒をのんだ。酒をのまない呉八段は、私のとなりで碁の雑誌を読んでゐたが、それは呉清源を論じた誰かの文章であつた。それを読み終つて、雑誌をペラペラめくつてみて、又よみだすのは自分を論じた文章のところだ。何度ペラペラやつても、結局よむのは、それだけだつた。もつとも、素人相手の碁の雑誌に、彼の心を惹く記事
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