そして、又、云つた。オレは席のあたゝまるヒマもなかつたのだ。夜行でついて、すぐ対局して、又、すぐ引返す。それで負けないと思つてゐたんだ。それでも勝つのが当然、オレが負けるなんて思ひもよらない不思議だと思つてゐたね、と。
 オレは然し今度は負けると思つてゐた。時代だ。時代に負けると思つてゐた。古いものが亡びる時代だからね、と。
 すべては当つてもゐるし、当つてもゐない。その秘密は、当人が深く心得てゐるはづである。
 まさしく私も、いはゞその「時代」を感じてゐたのである。私は彼が負けると思つた故に、対局を見物にでかけたのだつた。それは然し、私にとつては「時代」ではない。彼はすでに負けるべきところに来てゐたのである。
 私が木村升田三番勝負を見物に名古屋くんだりへ出かけたのは、名人位を失つてからダラシなく負けこんでゐる木村に立直りのキザシを見たからであつた。特に升田にはストレートで負けつゞけてゐる。その年には挑戦者の四人の一人に加はることも出来ない。それにひきかへ、升田はA級筆頭で、自他ともに許す次期名人の候補であつた。私は木村が勝つかも知れないと思つたし、勝たせたいとも思つた。私は彼の立直るキザシを信じてゐたから、私がそれに助力することが出来るかも知れないと思つてゐた。
 升田は二日前に名古屋へ来てゐたが、酒をのみつゞけて、節制がなかつた。彼は木村を呑んでかゝつてをり、負ける筈がないと思ひあがつてゐた。そして升田は対局の前夜に乱酔して木村と碁をうち、酔ひがさめて、ねむれなくなつてゐた。翌日の対局も軽佻で、気負ひにまかせて慎重を失ひ、簡単に敗れてしまつたのである。それに反して、木村は甚しく慎重であつた。
 私がモミヂの二階にはからざる塚田升田を見てヤヤと思つたのは、それらのことを思ひだしたからである。
 名人位四回戦は翌々日にせまつてゐる。おそくとも対局地へ二日前について静養してゐる習慣だといふ塚田が、大切な名人戦を目の前にして対局地でもないところで酒をのんでゐるのである。湯河原までバスもいれて三時間ぐらゐのものかも知れないが、勝負師の心構えとしては、かうあつてはならないものである。
 私の顔を見ると、升田がヒョウキンな目を光らせて、
「オ、塚田名人とオレとは親友だ。親友になつた」
 と、云つた。
 私がこの前升田に会つたとき、彼はまだ戦後は塚田と指してはをらず、塚田と
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