な手は、決して相手が読む筈のない手なんですよ」
「時間ぎれを狙うてるんや」
と、升田がズバリと云つた。その時、木村の時間は、あますところ四十四分であつた。木村の読む筈のない手を指した。木村あますところ四十四分といふ時間を相手にしての塚田の賭博なのである。全然読まない手であるから、木村は面食ふ。そして改めて考へはじめなければならない。今まで木村が考へてゐた色々の場合が、みんな当てが外れたわけで、何百何十分かがムダに費されたわけである。そして、あますところ四十四分で、このむつかしい局面を改めて考へ直さなければならないのである。あます時間が少いので、木村はその負担だけでも混乱する。そして思考がまとまらぬ。時間は容赦なく過る。木村はあせる。塚田は、そこを狙つたのだ。
私は今期の名人戦はこの一局以外に知らないが、塚田の戦法は、主として、木村の時間切れを狙ふ同一戦法であつたといふ話である。
棋士一同アレコレ考へたが、先の予測がつかないやうであつた。ところが木村は、この時まつたく勝算があつたさうだ。この日の木村は、あくまで平静であつた。時間ぎれといふ、将棋そのものゝ術をはなれた塚田の奇襲は、まつたくヤブ蛇であつた。
木村、十六分考へて、四八金。
これも、控室の予想を絶した一手であつた。
「渋い手だね」
と、金子が嘆声を放つと同時に、
「流石《さすが》だなア」
と、升田がうなつた。
塚田、九分考へて、三三桂。木村ノータイムで二九飛。
私は又ソッと道場へ忍んで行つた。その時午前二時三十五分であつた。二時五十分。塚田、駒台から銀をとりあげて、決然たる気合をこめて叩きつける。四六銀(十六分)。ただもう戦闘意識だけといふ、ちよッと喧嘩腰の力のこもり方であつた。負け気味のボクサーが、たゞもうテクニックなく、やけくそにぶつかつて行くラッシュに似てゐる。興奮し、ウハズッてゐるとしか思はれない。
それに対する木村は、落ちつきはらつて、パチリと打つ。二六角(二分)つゞいて、塚田、四四桂(七分)六三角(一分)この時までに、木村四百五十五分を使ひ、塚田は三百七十六分使つてゐる。
ここまでの指手を私が控室へもたらすと、土居、大山、金子、異口同音に、塚田が悪くした、とつぶやく。控室の高段者連、ここで塚田の敗勢をハッキリ認めた。
塚田三六桂(二十分)木村ノータイム、五八金。塚田、また二
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