「先生をやりこめて愉しかつたでせう」
 岡本の帰つたあとで、素子が言つた。谷村はこのやうな奥歯に物のはさまつた言ひ方に、肉体的な反感をもつ性癖だつた。人に与へる不快の効果を最大限に強めるための術策で、意地悪ると残酷以外の何物でもない。素子はそれを愛情の表現と不可分に使用した。それも亦、一種の肉体の声だつた。
「はつきり教へてちやうだい。もし先生が芸術家だつたら、先生の言ひなり放題にお金を貸してあげる?」
「僕のやり方が残酷だつたといふ意味かい。僕はもう僕自身に裁かれてゐるよ。そのうへ君が何をつけたすつもりだらう。然し、僕はやりこめはしなかつたのさ。たゞ、反抗したゞけのことさ」
「それでも、先生はやりこめられたでせう。先生のお顔、穴があいたといふ顔ね。人間の顔の穴は卑しいわ」
 女は残酷なことを言ふものだと谷村は思つた。そのくせ、それを言ふことは彼女の主たる目的と何のかゝはるところもない。素子はたぶん谷村をやりこめようとしてゐるのである。その途中に寄り道をして、道のべの雑草をいはれなく抜きすてるやうに、岡本にたゞ残酷な一言を浴せかけてゐるのであつた。
「古事記にこんな話があるぜ」と谷
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